わが家に来たばかりの康平
現在の康平と私

山田康平、3歳(推定)。2007年5月、わが家にやってきた。その年の1月ころに生まれ、都内の公園に潜んでいたところを保健所に捕獲、収容された。それをドッグシェルターという団体が救い出し、里親を希望するわが夫婦に出会いの機会を与えてくれた。

 体重が4キログラム強しかなかった当時の康平は、人見知りが激しく、よちよち歩いてはすぐに私の背中の陰に隠れた。まともなものを食べていなかったのか、お腹の中にはずいぶん虫がいた。少し大きくなって外を散歩できるようになっても、車や自転車が近くを通ると体を震わせて怯え、匍匐(ほふく)前進した。捕獲、収容された経験がトラウマになっているようだ。

 犬の3歳は立派な大人だ。体重も17キログラムに増え、顔つきも凛々しくなった。外出時の匍匐前進の癖は直らないが、番犬としての役割も覚え、カラス、野良猫、不意の来客には果敢に吠える。勤め帰りの私には、激しくしっぽを振って出迎えてくれる。 

 毎朝、近所の公園までの散歩を日課としている。うれしそうに飛びついてくる康平。私はそれを両手でしっかり抱き止め、心臓の鼓動を聞き、ふさふさした毛に顔を埋め、「康平、康平」と呼びかける。最高に幸せな瞬間だ。これを康平も私も、毎日毎日、飽きもせず繰り返している。不思議なのは、何百回やってもこの幸福感が一向に色褪せないことだ。

 ナシーム・ニコラス・タレブという文芸評論家が書いた「ブラック・スワン」という本に、おもしろい記述があった。ちょっと長いけど引用してみる。



  実際のところ、幸福はいい気分の強さより、いい気分になった回数のほうにずっと強い影響を受ける。心理学者たちはいい気分になることを「ポジティブ感情」と呼んでいる。言い換えると、いいニュースはとりあえずいいニュースだ。どれだけいいかはあんまり関係ない。だから、楽しく暮らすには小さな「ポジティブ感情」をできるだけ長い間にわたって均等に配分するのがいい。まあまあのいいニュースがたくさんあるほうが、ものすごくいいニュースが1回だ けあるよりも好ましいのである。



 人間は太古から、飲んで、食べて、寝てという原始的な行為の継続にささやかな喜びを感じるように作られている、とタレブは言う。慧眼(けいがん)である。科学が進歩し、職業が多様化し、生活が複雑さを増したとしても、この原理は変わらないのかもしれない。

 そんなことを考えていると、近年の新聞報道が読者を惹き付けなくなっているのも、何となくわかってくる。一人の政治家を失脚させなければ日本はだめになると叫び、基地問題が合意通りに解決しなければ日米関係が戦争状態に陥りそうなほど悪化するとがなり立てる。小さな事実を伝えるよりも大仰な提言で一面を飾ることを好み、読者の不安と焦燥をあおる。それでなくても日々の生活は苦しいのに、新聞を読むともっと辛くなるというのでは、たいがいの人は新聞を放り投げるだろう。

 どうすればいいか。確信は持てないが、タレブの言葉を信じて、まあまあのいいニュースを、できるだけ長い間にわたって、継続的に紙面に載せる努力をするというのもありのような気がする。ということで、2010年は、記事も写真も「まあまあのいいニュース」に注目したい。