毎年6月になると思い出す「六四」と浅田飴。「六四」とは、1989年6月4日の未明、民主化と腐敗一掃を求め、北京市の中心部にある天安門広場に全国から集結した学生たちを、武力によって強制排除したことで、市民を含む多数の死傷者を出した「天安門事件」のことです。

当時、北京支局の特派員だった私は、その時、天安門広場でテレビカメラを持ち取材に当たっていました。猛スピードで長安街を東から突進してきた装甲車が、天安門の前を通り過ぎようとした時、ガードレールを利用して築かれていたバリケードに阻まれ、立ち往生しました。次々と火炎瓶が投げつけられ、瞬く間に装甲車は炎に包まれました。私は一部始終を撮ろうと駆け寄りました。
炎上した装甲車から兵士が脱出しようとした時、周囲から「叩き殺せ!」という声と、「殺すな!」という声が飛び交いました。いわゆる事件後政府が暴徒と呼んだ集団と、兵士を守ろうとした学生の間で、明らかに違う行動が起きていたのです。

結局、負傷してぐったりした兵士を学生らが抱き抱え、駆け付けた救急車で病院へ運びました。後日、病院で聞いた話では、事件当時、兵士を運んだことで救急車が暴徒の標的になり、燃やされたりして大破したとのことでした。

広場の中心にある人民英雄記念碑の前では、学生たちが革命歌「インターナショナル」を肩を組み合唱していました。号泣しながら歌う学生。心の中で無事を祈りながら、ただ、すべてを撮らなければとの一心で取材を続けました。

やがて長安街には続々と銃を水平に抱えた人民解放軍の兵士が現れ、やや斜め下に向けた銃口から、火花が散る様子が見えました。その瞬間、道路上の多くの学生や市民が逃げ惑いました。威嚇射撃だと思っていましたが、目の前にいた女学生が急に腹部を押さえて座り込み、地面には血が広がりました。撃たれたことが分かりました。

支局は広場から長安街を東におよそ3キロ行ったところにあり、流れ弾が街路樹の葉をバサッバサッと落とす音を聞きながら、這々の体で何とか天安門広場で取材したテープを支局まで無事持ち帰りました。

取材した映像素材は、通常はCCTV中国中央電視台から衛星伝送していましたが、4月15日の胡耀邦元総書記の死をきっかけに、北京市内では民主化を求める学生デモが連日繰り広げられ、政権への批判が日に日に激しさを増しました。5月19日、ついに首都北京に戒厳令が敷かれました。その後CCTVからの伝送はできなくなり、空路で東京に持ち帰るか、内戦状態を恐れて帰国する邦人に運んでもらうしか方法はありませんでした。

日本に送る部分の編集を終えると、テープを解体し、編集済みのロール部分だけを何かに入れて乗客に渡すことを考えました。空港でのチェックを恐れ、できるだけカセットテープの原型を留めたくなかったからです。さて、何に入れるか。当時、のどが痛い時によく嘗めていた浅田飴。その缶がちょうどいい大きさであることに気が付きました。空にした缶の底にロールを置き、中敷きの紙、そして、飴を並べました。缶は、その日の臨時便で帰国する男性に託し、成田空港で待ち受けたNHK職員の手に渡りました。未明に撮影した天安門事件の映像は、十数時間後、当日のニュース7で放送されました。

あれから23年。中国は日本を抜いて世界第2位の経済大国に成長し、将来第1位になることが予測されています。今や海外旅行や海外の不動産投資に走る富裕層が目立つ中国ですが、果たして、国民は豊かになっているのでしょうか。なくならない権力闘争や汚職、増殖する知的所有権の侵害、人権侵害問題等々、疑問は多く残ります。

先月19日には、中国の人権活動家・陳光誠氏が中国を出国しアメリカへ渡りました。また、天安門事件の後、国外に亡命した学生運動指導者のウアルカイシ氏は、家族との再会を理由に、ワシントンの中国大使館に帰国の申請に訪れましたが門前払い。集まったメディアを前にして嘆きました。

結局、何も変わっていないと思わずにはいられませんが、悠久の歴史からすると、この23年はほんの一瞬なのかもしれません。さまざまな現場で「瞬間」を記録する若いカメラマンには、これからもファインダーを通した実像を根気よく撮り続け、歴史の証人としての活躍を願うばかりです。