【写真】神田市場=1984年撮影

結城淳

《ごあいさつ》

この度の東日本大震災でお亡くなりになられた方へのお悔やみと、被災者の皆様に心よりお見舞い申し上げます。自然の脅威とはいえ、余りにもひどい仕打ちに言葉もありません。この不条理は理解しようとも、理解できません。この世は明日何が起こるか、本当に分からないことを明晰にしてくれました。

挨拶が遅れましたが、日本農業新聞の結城淳と申します。2月に広告部から異動してきました。若輩者ですので、皆さまにはご指導・ご鞭撻を何卒よろしくお願いします。

簡単な自己紹介をさせていただきます。1982年に日本農業新聞に入りまして、駆け出しは「やっちゃば(市場)記者」でした。昔を知らない人は想像できないと思いますが、当時国鉄秋葉原駅北口(現在のITビル、消防署)には東京の台所、神田市場(太田市場に移転)がありました。早朝から、それは賑やかなものでした。新人だけに、びっくりしたことは、10時30分にちっぽけでそれは汚い記者クラブに入ると、まず先輩の一声は「結城やるぞ」。仕事と思いますよね。でも違うのです。「こいこい(花札)」だったのです。青果卸のギェンブル大好き叔母ちゃんも交え、12時過ぎまで「こいこい」に精進して、ようやく本番、翌日の紙面を考えます。

この時点で、まだまっ白です。「キャベツが上げてるな。よしそれトップ」。「ミカンの低迷はひどいな。それサブ」。「片はどうする」。なんていう紙面つくりでした。今では考えられないほど、おおらかな時代でした。夜は早々18時(まだ勤務時間内です)くらいから、社内の片隅で酒の宴が始まります、その後、これも例外なく居酒屋へなだれ込みます。毎日毎日、延々午前様まで続きます。

夏場は銭湯(風呂付のアパートに入れたのは数年後松山に転勤した時が初めてでした。今は学生も風呂付きが常識だそうで、信じられませんが)にいけずに鬼デスクに「今日くらいは12時前に帰らせて下さいよ」と抵抗したものです。デスク曰く「風呂入らなくても、死にやしねよ」。

「やっちゃば」を4年やり、次は花の営農技術担当(何と農業専門紙、花の技術記者は初めてでした)。これは1年でちょんとなり、転勤で四国・松山で4年、戻って、くらし面、校閲、社会面、農政担当など上に嫌われていたのか、次から次へ部署が変わりました。異動にもめけず、あいもかわらず、上にモノ申していたせいか、編集から営業(広告)に飛ばされ、新会社立ち上げ準備室、6年前に名古屋で販売担当等など、経理以外あちらこちらを回り、ようやく写真部に辿り着いた次第です。

肩書は名ばかりですが、写真部長。が、悲しいかな見せるビジュアルな絵をとれませんので、実務は少数精鋭の部員にまかせ、もっぱら雑務が主な仕事で、寂寞感を感じる日々です。

恥ずかしい話ですが、東日本大震災の現場にまだ行かせてもらえません。そろそろ勝手にネタを拾い写真とペンで己の存在をまず身内に知らしめたいと切に思っております。被災地には連休明けには入りたいと思っております。写真は紙面には反映されない可能性大ですが…。

一番好きな写真家は日本人初のマグナム・フォトの寄稿写真家となった濱谷浩です。昔NHKでの特集をみて、圧倒されました。雪国、裏日本、怒りと悲しみの記録など、特に人物は圧巻です。今でもこんな写真を撮れたらと最高だと思います。叶わぬ夢ですが。ただ、くらし面時代に元気な高齢者の企画(後に「輝いてときめいて」という本になりました)をやりましたが、記事より元気で生き生き見せる写真に重点を置いて取材したのが5本の指に入る思い出です。

趣味は路上観察、人物観察です。暇はたっぷりありますが、お金がありませんので。埼玉県鴻巣市の田舎が自宅というのも幸いしてか、休日はカメラを片手にぶらぶら、ぷらぷらです。移り行く自然の変化は飽きることがありません。長くなってすいません。最後に理想の人物像は藤沢周平が描く哀歓ただよい、淡い恋心ある庶民か下級武士的存在です。映画にもなった「隠し剣 鬼の爪」で永瀬正敏が演じる片桐宗蔵には、憧れてしまいます。

今後とも何かと大変お世話になりますが、よろしくお願い申し上げます。