写真=ヤンゴンの自宅で笑顔のアウンサンスーチーさん。民主化運動のシンボル「闘う孔雀」の旗が掲げられている=1995年11月1日


写真=登山客が雪崩により遭難した現場で、遺体収容にあたる捜索隊員ら=1995年11月13日

昨年4月、ノーベル平和賞受賞者のアウンサンスーチーさんが毎日新聞東京本社を訪れた。毎日新聞が長く連載している「ビルマからの手紙」に対する感謝も兼ねて、日本を訪問した際に是非毎日新聞社を見学したいと言っていただいたのだった。この連載の筆者はスーチーさん本人で、自宅軟禁されていた期間の中断を挟んで1995年から現在に至るまで続いている。連載を通して彼女の言葉を世界に発信し続けて来た。

連載が始まる前の1995年10月末、当時現場カメラマンだった私は連載用にスーチーさんやミャンマーを紹介する写真を撮るため外信部編集委員とともにヤンゴンへ向った。彼女はその年の7月に6年に及ぶ最初の自宅軟禁から解放されていたが、軍事政権下で当局の監視対象である事に変りはない。本当に本人に会って撮影が出来るのか、不安を抱えての出発だった。カメラやノートパソコンの持ち込みなどにはかなり気を使って入国した。事前に取得する予定だったビザも東京では何度大使館に通ってももらえず、見切り発車。タイのミャンマー大使館で行った申請があっさり通って事なきを得た。入国後は事前の心配をよそにスムーズに取材にこぎつけ、様々な場面を撮影できた。

当時スーチーさんの邸宅では、支持者が集まる集会が毎週開かれていた。邸宅に面した道路に数百人が集まり、国民的英雄のアウンサン将軍の娘でもあるスーチーさんの演説に熱狂的に耳を傾けていた。その様子も邸宅の塀に登らせてもらうなどして撮影することが出来た。連載開始当初は週1回、年間を通して掲載する計画だったため、わずか10日ほどの滞在期間中に50回分以上のカット写真が必要だった。彼女にもいろんなポーズをとってもらって、湖に面した広い邸宅のいろんな場所で本人の撮影を行った。自宅前で開かれていた集会は翌年、当局の妨害で開催が出来なくなり、2000年に再び軟禁されている。

自宅内で行われる野党国民民主連盟(NLD)幹部との会合を取材した際は、会議の冒頭だけの約束で撮影を開始したのだが、誰も止めようとはしないので調子に乗って撮影を続けていると、それまで和やかに撮影に応じてくれていたスーチーさんが「撮影はもう充分だと思います」ときっぱりとした口調で言い渡された。彼女の意思の強さを感じた一幕だった。彼女の手料理もごちそうになる事もあった。国民的英雄の娘であり、反体制のリーダー、ノーベル平和賞受賞者にして、とても家庭的で魅力あふれる女性でもある。報道カメラマンが撮影する対象としてこれほど魅力的な人物はいないだろう。この取材が出来た事は、私の一生の思い出であり、誇りでもある。
彼女の取材を終えた後もミャンマー国内の自然や風俗、人々を紹介する写真を撮るため地方にも出かけた。どこに行っても立派なパゴダがあり、人々もおおらかで充実した撮影行となった。ミャンマーがとても豊かで魅力的な国である事を痛感した。

2週間ほどのミャンマーでの取材を終えた私は、帰国の経由地である隣国タイのバンコクに出国した。その夜、ほとんど思い通りの取材が出来た私はこの取材にも関わったバンコク駐在の外信部記者と祝杯をあげていたが、ホテルに帰った私に飛び込んだのが、「日本人登山客多数がヒマラヤで雪崩により遭難」というニュースだった。その報に接したものの、私がまさかそのままネパールに飛ぶことになるとはそのときは思いもしなかった。熱帯にあるミャンマーへ出張する私は当然ながら、高さ約4000㍍もの山岳地帯で取材するような準備は全く無かった。その上、当時ネパールの首都カトマンズへは日本からの直行便も出ていたからだ。

ところが、ホテルへ帰った私に日本からメッセージが入っており、会社に電話すると、すぐにネパールへ行って欲しいと言う。たとえ自分がどんな体制でも会社から行けと言われれば行かざるを得ないのがスタッフフォトグラファーの宿命だ。海外の災害取材などでは、現金がものを言う。ミャンマー取材を終えた私は手持ちの現金も乏しかったためバンコク支局で借りる事に。それから慌てて翌日のバンコクからカトマンズ行きのチケットを抑えようとしたが出来ず、翌朝キャンセル待ちの列に並ぶはめに。運良くエコノミー料金で空いていたビジネスクラスに乗ることが出来、ネパールに飛んだのだった。

なんとかして現場で取材出来る装備をそろえなければならない。幸いカトマンズにはたくさんの登山用具店があり、比較的安価で販売されていた。防寒着などを買いそろえ、救難ヘリに同乗させてもらいヒマラヤの遭難現場へ向った。

日本を出る時は半袖しか持っていなかったが、遭難の取材を終えて帰国する私のスーツケースは、厚手のフリースやダウンジャケットでパンパンにふくれあがっていた。