コラム
《メークドラマ》
1996年巨人担当2年目だった私は、巨人・長嶋茂雄監督の名言となった「メークドラマ」に身をもって体験する年となった。この年は4月の「ロケットダッシュ」に失敗すると、7月6日の時点で首位広島に11.5ゲーム差をつけられ自力優勝は早々と消滅。誰もが「絶望」と思っていたときに巨人の快進撃が始まった。
7月9日の札幌・円山球場で行われた広島戦で2回二死から打者9人の連続安打で一挙7点を奪って勝利する。当時の円山球場は年に2試合しかない平日開催の巨人戦を見るために、学校を休んで見に来る子供たちがいるほどの人気カード。担当2年目の私は先輩2人とともに取材していたが、当然のごとく先輩2人は内野のカメラマン席で私は外野でお客さんに囲まれて撮影する席だった。円山球場の外野にカメラマン席などなかった。お客さんたちに埋もれながら、時にはトイレに行く人たちがレンズの前を横切るは、おばあさんが三脚につかまりながら歩くなど、とても撮影に集中できる環境ではなかったのをほろ苦く覚えている。
外野センターカメラマンの役目は一球も撮り逃すことなく全球シャッターを切るのが当たり前。そんな環境の中から9連続安打全打者の写真を紙面掲載できてほっとしていた自分がいたのが「メークドラマ」のスタートだった。そして11.5ゲーム差から93日目ついに「メークドラマ」が完結する。10月6日のナゴヤ球場、来季からはナゴヤドーム使用が決まっていて最後の公式戦だった。当時の公式戦は130試合制で、巨人129試合目での完結である。午後6時開始の試合は3時間20分、5-2で巨人が勝利して優勝となった。
巨人担当2年目とはいえ、野球取材自体が2年目の私は優勝時の監督胴上げを撮ったことがなかった。私はナゴヤ球場三塁下のカメラマン席での取材で、当時は36枚撮りのフィルムにオートフォーカスなどなくマニュアルでの撮影。そこで長嶋監督自身の「メークドラマ」を撮ることとなる。
優勝が決まり選手、監督、コーチがマウンドに集まり、三塁下の私の位置からは長嶋監督の居場所が分からなくなる。次の瞬間33番の背中が上がる。「あれ!?監督の背中が…」胴上げ写真を撮影する者として33番の背中は見たくなかった。ところがその後、当時還暦の60歳とは信じられない長嶋監督の軽やかな身のひねりで監督の笑顔がこちら向きに…。7回舞った中でジャイアンツファンのいる三塁へ自分の体を向ける長嶋監督の「メークドラマ」のおかげで胴上げ写真がばっちり撮影できた。
胴上げが終わり、長嶋監督みずからレフトスタンドのファンにあいさつして最後に三塁側スタンドのファンの前で突然帽子をとって満面の笑みでバンザイ!。胴上げ撮影を終えていた私はほっとしたのかフィルム交換を忘れていて、400㍉レンズ縦位置いっぱい、いっぱいのフレーミングで懸命にピントを合わせてシャッターを切るも3コマ切ってモータードライブが止まる音…。当時先輩からは30枚を撮らないうちにフィルムチェンジするように厳命されていた。長嶋監督の満面の笑みが頭に残りつつ不安の中巨人の祝勝会を取材して名古屋総局に戻った。当時のMデスクから一言「3コマのうちピントが合っていたのはひとコマだけだ。それもフィルムカウント36のあとのEのコマ、36枚撮りきるバカがどこにいる!!」
もっとものお言葉に何の反論もできなかったが、翌日、満面の笑みの長嶋監督が紙面の1面に10段で掲載された。当時の優勝決定時の紙面は「胴上げ写真」が定番であったが、Mデスクの押しにより定番写真ではない一味違う満面の笑み写真が掲載され、監督の軽やかな身のひねり胴上げ写真は小さく付ける紙面展開となった。野球担当2年目での巨人「メークドラマ」は自分自身にとってもフィルムカウントEの「メークドラマ」だった。