【写真】海氷に集うペンギンと氷山。3枚組みでの受賞だったが、この写真は日の目を見ることはなかった

【写真】報道写真展のポスターになった潜水艦「なだしお」。しかし、写真集発行中止で表紙になることもなかった

新聞社に勤めて29年目。写真記者(=カメラマン)以外にも取材記者、見出しを付け紙面を組む整理記者、取材の指揮や編集を行うデスク、Web写真ニュースの編集などを経験したため、写真取材の現場にいたのは9年余に過ぎない。ところが、現役カメラマン生活は短くても、東京写真記者協会(東京写協)が行う写真展や贈賞の際に、なぜか、自分の写真が想定外の扱いを受ける事態が続いた。同じような経験をしている写真記者はいるのだろうか?

東京写協が行う大きなイベントに、毎年12月、日本橋三越本店で開催する報道写真展がある。加盟各社の写真記者の作品で1年を振り返る恒例行事。写真展に合わせ、優れた写真には東京写協から賞も贈られる。展示作品と受賞作を選ぶのは、作品に関しては報道写真展実行委員16人のデスク、賞は在京写真部長15人だ。一連の作品は毎年、写真集にまとめられる。その表紙は、毎年作られる写真展のポスターをベースにデザインされることが多い。会場には、受賞作品▽1~12月まで月ごとの出来事▽五輪などの大きなイベント-などのコーナーが設けられる。展示スペースの関係から厳選した写真をさらに絞り込むことも珍しくない。

駆け出しのころ「写真展に選ばれたい。いつかは賞も」と願っていた。写真記者になって2年目。意外と早く機会は訪れた。1988年7月、神奈川県横須賀沖で起きた潜水艦と釣り船の衝突事故を撮った1枚が写真展に選ばれ、ポスターにも採用されたのだ。取材ヘリコプターから潜水艦前部の傷と全景を写した1枚で、先輩から「写真集の表紙にもなる」とも告げられた。

多くの犠牲者が出た事故の現場写真。胸中は複雑だったが写真集を心待ちにしていた。ところが、いつになっても刷り上がってこない。しばらくして聞いた先輩の言葉には耳を疑った。「今年だけ写真集はありません」。詳細は不明だが金銭的な理由だったと記憶している。今も社の本棚に1988年の写真集はない。私の〝表紙デビュー〟は幻に終わった。

それから7年後の1995年3月、「地下鉄サリン事件」が起きた。日比谷線神谷町駅に駆けつけた私は、救急隊より早くホームに降りて多くの人が倒れる惨状を撮影。写真はニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストにも掲載された。ただ、自分もサリン中毒特有の症状「縮瞳」が出て救急病院へ運ばれ、被害者の1人に。体を張った写真は同僚3人が撮影したカットとともに、この年の「一般ニュース部門賞・国内の部」を受賞した。

この時、私の写真には事件の犠牲者が写っていた。卑劣なテロを伝える紙面に掲載できても写真展には使えない。同じ理由で写真集からもはずされた。受賞者に名を連ねたものの、自分が撮った決定的な写真は事件発生当日の新聞以外で、ほとんど人目に触れることはなかった。

その後はデスク業務に就くなどして撮影の機会が減少。現場から遠ざかるばかりだった。進化するデジタルカメラに「ついていけない…」と感じ始めた3年前の春、南極出張が決まった。日本新聞協会代表取材者として観測隊に同行する長丁場。写真記者初の「2度目の南極代表」だった。2010年11月から130日間、極地へ出向き、雄大な自然や観測隊の仕事ぶり、日常などを取材、写真と記事を送り続けた。

帰国後の一昨年12月、意外な知らせが。「ペンギンと氷山」「オーロラ」「蜃気楼(しんきろう)」の3枚組み写真が「奨励賞・特別賞」に入ったとのこと。代表写真の受賞はあまり例がなく幸運だった。被写体が極地の自然だったこともうれしかった。しかし、ここでも想定外の事態が…。写真展に飾るカットが2枚に絞られたのだ。ボツになったのは気に入っていたペンギンの写真。写真集掲載も2カットになり、3枚組みで受賞した痕跡はなくなった。

このほか、取材班の一員として関わった組み写真が「特別賞」をいただいた際も、仲間が撮ったカットも含めてほとんどの写真がお蔵入りだった。「組み写真で枚数が多い」との理由だけでなく、さまざまな事情で写真展の展示や写真集掲載に至らないカットは少なくない。とはいえ、肝心な部分で足跡を残せないケースが2度ならず3度に及ぶとは…。