コラム
《沖縄の青い海を見て考えたこと》
嘉数高台展望台から見える普天間基地にはオスプレイが数機羽根を休めていた(13年2月18日、花井尊撮影)
2月に沖縄を訪れた。東京写真記者協会の部長会で、プロ野球の春季キャンプと米軍基地などを視察した。
巨人のキャンプを見学した翌日、宜野湾市内の高台に上がった。終戦直後に建設された広大な普天間飛行場と、その向こうに広がる東シナ海が一望できる。じっとながめていると、つい静かな青い海に視線が吸い込まれてしまう。その時、ふと、プロ野球創生期を支えた巨人軍の伝説の名投手のことが脳裏をよぎった。
第二次世界大戦の戦況が悪化していた1944年(昭19)12月1日、15隻の船団を組んだ日本の輸送船が門司港を出発した。翌2日午前4時頃、屋久島沖西方の東シナ海で米国の潜水艦の攻撃を受けた。2隻が沈没し、2100人が命を落とした。その中に剛速球で一世を風靡(ふうび)した巨人軍の沢村栄治がいた。27歳だった。
私は記者時代に沢村の直球人生を、丹念にたどったことがある。戦争という時代が、刻々と偉大なエースの「栄光の右腕」をむしばんでいく。取材をしていて、悲しくて、空しくて、やり切れなくなった。そして、最後に強い憤りが込み上げてきたことを思い出した。
沢村栄治を知らない世代のために、彼の人生を簡単におさらいしたい。
まだ日本にプロ野球が誕生する前の1934年(昭9)11月20日、静岡・草薙球場。全日本チームの投手として17歳の沢村が、来日した米大リーグ選抜との第9戦に先発した。初回1死から4者連続三振を奪う快投で、2日前の第8戦で21点をたたきだした強力打線を沈黙させた。本塁打王ベーブ・ルース、三冠王ルー・ゲーリックら超一流のバットを、剛速球とストンと落ちるカーブでクルクルと空転させた。7回にゲーリックに本塁打を浴びて0-1で敗れたが、当時の実力差からすると奇跡的な快挙だった。
36年(昭11)に日本職業野球連盟が発足した。巨人軍に入団した沢村はプロ野球初のノーヒットノーランを達成するなど日本一の立役者になる。翌37年の春のシーズンでも2度目のノーヒットノーランを成し遂げて、24勝4敗、防御率0・81で最優秀選手賞を受賞した。しかし、沢村の右腕が輝きを放ったのは、このシーズンが最後だった。この年の7月、日中戦争が勃発した。
38年1月、入隊した沢村は戦地に赴く。ボールの3倍以上も重い手榴弾を投げ続けて右肩を痛めた。頑丈な体もマラリアに冒された。40年に巨人に復帰したが、剛速球がよみがえることはなかった。現役最終年の43年の成績は登板4試合で0勝3敗。防御率10・64。左足を顔の位置まで上げる豪快な投球フォームは、ぎこちない横手投げに変わっていた。
あの忌まわしい戦争の終結からまもなく70年を迎える。国内唯一の地上戦の舞台となり、地形が変わるほど激しい砲撃を受けた沖縄は、巨人をはじめとするプロ野球球団の春季キャンプでにぎわっていた。ぜいたくなほどの施設が完備された練習場で選手は汗を流し、地元の子どもたちは色紙を手に人気選手に群がる。「野球がしたい」という純粋な夢さえもかなえられない時代があったことを知る人は少ない。
そんな和やかな光景を目で追いながら、私はあらためてスポーツを満喫できることの幸福をかみしめた。そして、青い海を見ていて、ふと答えのない問いが頭をよぎった。この近海の底に眠る沢村は、どんな思いで今の沖縄をながめているのだろうか……。