私が報道写真に興味を持つきっかけになったのは、実家にあった「読売報道写真集1962」と小学生のころ購読していた「少年朝日年鑑」だった。小学校の社会科クラブで小型カメラの「オリンパス・ペン」を手に史跡を手書き新聞にしたのが初取材だった。

高校のころ、テレビドラマ「池中玄太80キロ」に影響され、報道カメラマンに憧れた。専門知識は皆無なのに、大学の写真部に入部。先輩の後釜として始めた、広島市民球場でスポーツ紙のカメラマン助手をするアルバイトが人生の転機となった。締め切り時間に合わせ、撮影済みのフィルムを原付バイクで支局に持ち帰り現像・送信する。絶対に失敗できない緊張感でいっぱいだったが、間近で接したカメラマンの仕事ぶりや人柄、日々変化に富み、仕事後はノーサイドで飲み交わせる職場に惚れ込んだ私は、無謀にもバイト先の九州スポーツのグループ会社、東京スポーツ新聞社の一般試験を受けた。

しかし、世の中そううまくはいかない。不採用の通知が届く。気力も失せ、実家でぼんやりしていた夕刻、突然、家の電話が鳴り響いた。受話器越しに「おい!お前!やる気はあるのか?」といきなり写真部長の野太い声。「やる気があるなら都合のいい時に一度会社に来てみろ!」と。カメラマンの募集はなかったのに希望職種に太字でカメラマン志望と大きく記入した事が写真部長の目にとまったのか、愛用カメラバックを肩にその日の寝台特急に飛び乗った。  翌朝、写真部長よりも早く本社に着いた。写真部長は即上京した心意気を大変気に入ってくれた。「よーし!このまま1週間ほどここでやってみろ! しばらく仮眠所で寝泊まりしろ!」といった具合で早速、実地試験が始まった。アルバイトをしていたおかげで要領だけは良かったのか、1週間後、築地のうなぎ屋で私の〝合格″は告げられた。

先輩のお古のなめし革のように使い込まれた「マスミ」のカメラバッグ。汗の染みた自社腕章。豪快なシャッター音の一眼レフ「ニコンF2」。時折「ポンッ!」と暴発して怪しい煙が出るストロボ「P-5」を貸与された。東京写真記者協会の身分証と「PRESS」と彫られたバッジだけは新品でいただいた。今ではすっかり無くなったけど、暗室作業などの内勤を徹底的に教え込まれた。エプロンを着け薬品溶きや先輩のお手伝い、朝から晩まで掃除に始まり掃除に終わる。カメラを手に仕事といえば、複写か来社したアイドルの撮影がたまにあるくらい。自主的に早めに出社する通称「巨人時間」(V9時代のONが練習開始時間の1時間以上前にはスタンバイしていた事から)、電話は1回で取る、早メシ、早グソ、言われる前に先読みして気が付け! と教え込まれた。

取材デビューは先輩に連れられて行った公開収録現場。良いショットが撮れたと思いきやフィルム装填されていない凡ミスデビュー。いきなり目で撮ってしまった。

後楽園ホールで行われた女子プロレス。ダンプ松本対長与千種の髪切りデスマッチが行われていたが、あろうことか試合中にテレビクルーと私がささいなことで乱闘に。場外デスマッチは観客を大いに湧かせたが、負傷し後楽園球場の医務室に。医務室には巨人の投手=ルイス・サンチェスが水虫治療の最中、その医師がすぐに手当てをしてくれた。

猪木対マサ斎藤の巌流島決戦では本紙初のヘリ取材を敢行。福岡空港から飛び立った先輩が乗り込んだのは形がまん丸の農薬散布ヘリ=上の写真。撮影のためのホバリングが思うようにできず急上昇急降下を何度も繰り返し、リングの周りにありとあらゆるものが舞い散った。リング周辺で取材していた私は砂埃で「見えませ~ん!」と何度も絶叫した。

海外出張デビューは薬品を溶いた水が炭酸水と気付かず、現像したフィルムが気泡だらけのほろにがデビュー。英国エジンバラ空港ではスーツケースと別の大きなバッグに小さなビーグル犬が吠えまくった。別室に連れて行かれ、見るからに頑固そうな係員が無言でバッグを開けるとたくさんの小分けされた白い粉が。暗室道具と2か月分のフィルム現像用粉末薬品が入っていたのだが、説明も通じず、大物売人確保!とすでに興奮を抑えきれない様子で完全に犯人扱い。駆けつけた護送車に乗せられ連行、一晩勾留された。結局、連れの記者が会社に連絡し大使館も救出に手を貸してくれて翌日には自由の身になったが、薬品はすべて開封され使用不能になった。
別の年、また英国で。全英オープン最終日だった。デジタルカメラがまだ数百万円と超高価だった頃、プレスルームでほんのちょっと目を離した隙にすべての機材を盗まれ傷心の帰国。バルセロナ五輪では非公開の開会式リハーサルを隙間からこっそり撮影していたらマシンガンを持った警官に捕まりパスポートと取材ID没収、またしても勾留された。

命の危険を感じたのが当時参議院議員でプロレスラーの大仁田厚氏に同行したアフガニスタンだ。大仁田氏の早朝散歩に同行し、路地裏を撮影しながら歩いていたらいつの間にか迷い子に。ふいに現れたタリバンを名乗る2人組に大きなナイフをペタペタ当てられ脅されたがとっさに笑顔でハグして窮地を脱した。別の日の散歩では爆弾の穴があちこちに開いている丘に登り、帰りは近道しようと斜面を一緒に駆け下りた。いくら電流爆破デスマッチで慣れている大仁田氏とはいえ、不発弾や地雷だってあるかもしれない斜面をよくもまあ無邪気に駆け下りられたものだと、思い出すたびにぞっとする。〝邪道″恐るべし。

ノルマもはっきりした答えも無く、予測不能な現場に〝投げっぱなし″で派遣される報道カメラマンには撮影以外のエピソードがつきものだと思う。先輩方も私に負けず劣らずおっちょこちょいだったが、時に厳しく、時に優しくこの業界で必要な事をいろいろ教えてくれた。同時代をご一緒させていただいた同業他社の仲間にも恵まれ、うなぎ屋から28年、様々なドジを乗り越えながら運よくこの職業を続けられている事を本当に幸せだと思う。