冒頭から自分の会社のコンテストの話で恐縮だが、新米の写真部長として出席した1月28日の「よみうり写真大賞」の表彰式のことから始めたい。
審査の対象は昨年1年間に読者から投稿してもらったり、紙面掲載されたりした3万点余の写真。言わずもがなのことだが、報道写真の部門や「ありがとう」を課題にしたテーマ部門では東日本大震災を素材にしたものが目立ち、入賞作品は例年にも増して力作ぞろいだった。いつもなら和やかな雰囲気の中、笑顔が行き交う表彰式になるのだろうが、今回は少々様子が違った。

「今にして思えば、私がビデオで撮っている間、この津波におばといとこが流されていたんです」と壇上で嗚咽(おえつ)したのは、宮城県女川町で津波の映像を撮り、グランプリに選ばれた男性だ。彼は家族や知り合いに避難を呼びかけてから職場に戻り、観光施設の屋上で何時間もビデオを回し続けた。ビデオには「うわー、何もできねえよ」という男性の悲痛な声も入っている。津波で男性の自宅は全壊し、今も仮設住宅で生活している。

「元気になりました」というタイトルで、被災地でテント暮らしをする夫婦らの笑顔を写した岩手県宮古市の男性は「皆さまからの励ましを強く感じました。立ち上がることができました・・・」と話したきり、絶句してしまった。町が津波にのまれる光景や、家族を亡くして嘆き悲しむ人の姿を目の当たりにし、「写真なんか撮っていていいのか」と自問自答を続けてきたのだろう。大震災のまがまがしいまでの現実と受賞の晴れがましさとの落差に、気持ちの整理がつかないようにも見えた。

そんな人たちに向かって、「亡くなっていった人はカメラやビデオを通して皆さんに託したんだと思います。多くの人に知らせてほしいと」と、審査委員の大石芳野さんが語りかけた。

大石さんは日本における女性の報道写真家の草分けだ。40年以上も単身で紛争地や戦場を駆け巡り、カンボジアではポル・ポト時代の大虐殺を生き延びた難民、ベトナムでは「枯れ葉剤」の影響で障害を負って生まれてきた子供たち、ウクライナではチェルノブイリ原発事故の健康被害に苦しむ人々の姿を撮り、世界に発信してきた。大震災の被災地にもたびたび足を運び、原発事故で故郷を追われた住民らの苦悩を撮り続けている。

シャッターを押すのをためらったのは新聞社の写真記者も同じだ。入社4年目の記者は、焼けただれた幼稚園バスの前で園児一人ひとりの名前を呼びながら手を合わせている女性を撮ろうとしたが、「女性を傷つけてしまうのではと怖くなって、指が動かなかった」と話していた。

撮らなければ伝えられない。しかし、大災害や事故の現場で過酷な現実を写しとった写真は、刃物のように生身の撮影者を傷つけることもある。背負った重荷の中に「託されたもの」があると信じられれば、幾分かでも荷が軽く感じられるのではないか。そう思いながら、大石さんの言葉を胸に刻みつけた。