【写真】2014年4月に「川崎富士見球技場」に名称を変更。アメリカンフットボールの関東の聖地に生まれ変わり、社会人・Xリーグや関東学生リーグの熱戦が繰り広げられている=2013年11月撮影

【写真】川崎球場でのプロ野球最後の試合は2000年3月26日、横浜‐ロッテのオープン戦。試合後に地元の小学生らが「ありがとう」の人文字を作った=本社ヘリから撮影

昨年の秋、アメリカンフットボールの観戦で川崎球場(神奈川・川崎市)へ足を運んだ。息子が所属するチームの大学リーグ戦だったが、球場がアメフトの試合会場に使用されているのを長い間知らずにいて、偶然の「再訪」となった。フィールドの外は観客スタンドの改修工事が行われていた。「いつ以来だろう、ここへ来るのは」―。記憶の中の風景とはだいぶ違って見えたが、懐かしい気持ちがこみ上げてきた。

昭和の時代、プロ野球観戦は何ものにも勝るエンターテイメントだったと思う。小学生の頃、町内会のソフトボールチーム(子ども会)で行く川崎球場のナイター観戦は夏休みの恒例行事で、家族旅行に次ぐ楽しかった思い出として心の奥底に焼きついている。対戦カードは巨人対大洋ホエールズ(現:横浜DeNAベイスターズ)と決まっていた。座席も毎回レフト上段の外野席で、スター選手が打席に立つ姿がいつも遠くてがっかりしたが、満員のスタンドに鳴り響くファンの大歓声に胸を躍らせたものだ。眩しいほどに輝く照明灯が照らし出すグラウンドの土や芝の色、スタンドから眺めた薄暮の夕景を、今でもはっきりと覚えている。あの頃の野球選手はヒーローで、男の子ならば将来なりたいもののトップだった。スーパースターの王・長嶋の活躍、漫画「巨人の星」の影響で、圧倒的に巨人が人気球団だったが、私が生まれ育った街は当時、大洋漁業(現:マルハニチロ)の工場群があった土地柄か、ホエールズファンも多かったと記憶する。大洋球団が川崎球場を本拠地にしていた頃(55-77年)は、日本に勢いがある時代だった。61年生まれの私にとって、幼少期から思春期にさしかかる時期と重なる。無邪気で、夢にあふれる日々だった。

サンケイスポーツでは日本プロ野球80周年を記念し、今年4月から「追憶のスタジアム」という大型企画を連載している。プロ野球や球団の歴史に欠かせないのが、その舞台となる球場だ。昭和のプロ野球史を彩り、今では姿を消した名球場を月1回、資料写真をふんだんに使い、そこで繰り広げられた名勝負や秘話を関係者の証言をもとに、ノスタルジーたっぷりに紙面で紹介している。川崎球場も連載の第3回(6月24日付)に登場するが、その中で、「王貞治(巨人)が初の一本足打法を披露して初本塁打と通算700号をマーク」、「張本勲(ロッテ)のプロ野球史上初の通算3000本安打」、「落合博満(ロッテ)が3度の三冠王達成」、「大洋、三原魔術で奇跡の日本一(60年)の舞台に」等々のドラマティックな出来事を満載している。一方で、晩年は衛生面の問題や観客の少なさを揶揄され、選手やファンの評判が徐々に芳しくなくなる。ガラガラの外野スタンドでのキャッチボールや傾斜を利用した「そうめん流し」が話題になるなど、今風に言えば「痛い」イメージもついた。面白くも哀しいエピソードにも事欠かない名物球場だった。

90年代に入ってからは社会人や学生アメフトが盛んに行われるようになるが、老朽化した内外野スタンドの解体、撤去(2000年)を経て、野球場跡地を長方形の競技場に整備した。2014年4月には、「川崎富士見球技場」に改称し、「アメリカンフットボールの関東の聖地」をスローガンに掲げ、多目的のスポーツ球技場として生まれ変わった。旧一塁側には2000人収容のメインスタンドが完成、バックスタンドも現在建設中で、周辺一帯は市の緑地公園として開発計画が進んでいる。

プロ野球史に燦然と輝く川崎球場は追憶とともに消え、その姿を変えた。ナイター観戦に胸をときめかせた日から四十数年の歳月が流れた。人生を振り返るにはまだ早いが、五十路を過ぎて、折に触れて楽しかった少年の頃に思いを馳せることがある。今年の秋も、息子のアメフトチームを応援しに行こうと思う。新設のスタンドに座り、少しの間、昔の思い出に浸りたい。