【写真】震災から丸1日経った3年前の3月12日、南極海のしらせ船内で新聞を食い入るように見る観測隊員ら東日本大震災から3年。その瞬間、私は南緯61度、東経149度の南極海にいた。第52次南極観測隊の同行取材。観測船「しらせ」は、昭和基地を離れ海洋観測を行いながら、オーストラリアのシドニーに向かっていた。

金曜日だった。自衛艦の「しらせ」では毎週金曜の昼食はカレーと決まっている。長引く船内生活で鈍った曜日間隔を呼び起こすのが狙いだ。3月20日に下船する観測隊員にとって、11日のカレーは航海中に食べる最後のカレーだった。

昼食後、しばらくして私の部屋に「しらせ」の副長がやってきた。
「日本で大きな地震があったようです。何か聞いてます?」。唐突な言葉だった。今、昭和基地と日本国内は、衛星回線で結ばれインターネットが利用可能。情報はリアルタイムで入ってくる。しかし、しらせ船内にネット環境はなかった。

衛星電話に飛びつく。意外と早く東京の本社につながった。「結構、揺れました。でも、細かいことが分からない。東北がひどいようで津波の情報も入っています」と当番デスク。「本当だったんだ…」。仕事の邪魔にならないよう早々に電話を切り、とりあえず観測隊やしらせ乗員などに日本の状況を知らせた。さらに詳しく聞こうと、しばらくしてかけ直したが、東京への通話は全くつながらなくなっていた。

何とかつながったのは群馬の実家。年老いた一人暮らしの母の言葉に絶句した。「群馬もかなり揺れた。津波の中継をテレビでやっていて、車や家が飲み込まれている。気分が悪くなって見るのをやめた。怖い」。東京と群馬が同時に大きく揺れて、東北沿岸に大津波…。そんな広範囲で地震が起こるものなのか?
この時ほど、情報に飢えたことはなかった。

それでも、地震発生から丸1日が過ぎると、未曽有の災害の全貌が船内でも明らかになってきた。社から新聞各紙を写真に撮ってメール添付してもらった。衝撃的な写真が大きく掲載された紙面の数々。街全体が炎上するカット、津波で消滅した市街地…。初めて見る現場に息をのんだ。すぐに、プリントアウトして船内で回し読みしたが、観測隊員もしらせ乗員も言葉を失っていた。

このとき、「写真の情報伝達力」を実感すると同時に、自分の想像を超えた「現実」は、写真で見せられても簡単に受け入れられないことも知った。もちろん、この時の写真が「真実を写していた」のは疑う余地がない。大ニュース発生時に地球上でもほとんどない「情報過疎地」にいて、こんな形で「写真の威力」を実感したのは寂しい限りだった。

死者・行方不明者18000人超、関連死約3000人。改めて犠牲になった方々の冥福をお祈りいたします。