【写真】Nさんが愛した佃。高層ビルが並ぶウオーターフロントのそこここに民家も残っている=2007年、筆者撮影

 2009年5月、時事通信写真部の元カメラマン、Nさんが亡くなった。享年78。会社員生活の前半を経理部門など事務系の仕事で過ごした。その頃趣味で始めたカメラにのめり込み、アマチュア写真家として台頭。主要カメラ雑誌の年度賞を獲得するなど活躍し、その腕を見込まれて写真部に転属になった。



 Nさんの生涯のテーマは東京の下町。40年以上に渡り、浅草や佃島などにこだわって取材を続け、晩年には写真集も刊行した。N家を弔問した際、「写真のことはわからないから」と遺されたぼう大なネガの取り扱いに悩んでおられるご遺族に、「私に整理させてほしい」と申し出た。Nさんの写真の資料価値が極めて高いことは疑う余地がなかった。この話を「江戸東京博物館」(東京都墨田区)に持ち込んだところ、幸い興味を示してくれ、「どの時代のどんな写真があるのか調べてほしい」と依頼された。



 それから私は休日のたびにN家に通い始めた。Nさんの写真整理は行き届いており、すべてのネガに時系列の通し番号をふった上、それに対応するベタ焼き(コンタクトプリント)を貼り付けたアルバムを残していた。私の仕事はネガとベタを照合して、資料性の高いコマを特定し、そのリストを作ることだった。対象を「昭和期に東京都内で撮影された写真」に限定したが、それでも最終的にリストアップされたネガは2190本、コマ数にして7万705枚に達した。



 「浅草三社祭」「佃の子どもたち」「新宿フーテン族」「下町の紙芝居」―ネガには、私自身も少年期から青年期を生きた「昭和」の気配が息づいていた。感情移入して、作業の手がストップすることもしばしば。デジタル化された現在と違い、フィルム時代は36枚という制約の中で起承転結を表現する。Nさんが現場で何を感じながらシャッターを押しているか、ベタを通して追体験するような感覚にとらわれ、取材の足跡をたどる旅はスリリングだった。



 ベタを見ながら気付いたことがある。Nさんはアマチュア時代の初期、動物園などでの写真コンテストやモデル撮影会に頻繁に通っている。普通、腕を上げ、作品が認められるようになれば、こうした行事は“卒業”していくものだが、Nさんはトップアマになって以降もずっと参加している。私の推測だが、Nさんはそこで知り合った写真関係の友人知己との交流を大切にし続けたのだろう。「写真家先生」になって仲間の輪から離れることを潔しとしなかったのではないか。いい意味でのアマチュアリズムを手放さなかったのが、半生に渡って写真を撮り続ける原動力になったと思う。



 写真は続けた者が勝ち。何かを好きになって始めることは簡単だが、人間は必ず飽きる動物だ。控えめなNさんには「表現者として同時代の現実を切り取ってやろう」などという大げさな野心はなかったはず。だが、その作品群は当時の時代性を何重にもまとって底光りしている。特別な気負いや覚悟がなくても何十年と取材活動を続けられたのは、Nさんがごく自然に写真に寄り添っていたからだ。好きでい続けられるのが最大の才能だ。



 Nさんのネガは今、同博物館に移って学芸員の手で守られている。Nさんの人生は幕を閉じたが、その分身ともいえる写真はこれから新しい旅に出て、いろんな人たちとの出会いが待っているだろう。