毎年桜が散った今頃になると、両肩がうずくような気がする。仕事柄いろんな所へ行ったが、それは日本から一番遠い所で私が体験したことが原因であり、それまでの日常からかけ離れた記憶は、今でも私の心のどこかに刺さった棘になっている。

1996年12月17日に発生した「日本大使公邸人質事件」取材のため、南米ペルーの首都リマに到着したのは、翌年の2月6日。公邸内に当初600人以上いた人質は徐々に解放されて70人余りになっていたが、獄中の仲間の釈放を求める犯人のトゥパク・アマル革命運動(MRTA)側とフジモリ大統領率いる政府側の交渉は難航していた。帰国までの2カ月あまり、到着直後から始まった国際赤十字やカトリックのシプリアニ大司教が仲立ちした双方の直接交渉などを取材しながら、高い塀に囲まれた大使公邸を見下ろせる16階建て高層マンションの最上階にある撮影「定点」で張り番生活を続けた。

リマのサン・イシドロ地区という高級住宅街にあるマンションの「定点」は奇妙な部屋だった。階下に住むオーナーが投資のため、これから内装工事をしようとしていたワンルームを日本の新聞・通信数社が借りて、各社が使う窓1つごとにペルー人の平均月収をはるかに上回る家賃を払っていた。ニュースカメラマンに張り番は付き物だが、これ程長い時間他社の人々と一緒に過ごしたことはない。大晦日にMRTAのセルパとの会見に成功して有名人になっていたH氏や、当時はストリンガーで地元の散髪屋の女の子の追っ掛けが居たO氏、夜通し一睡もせずゴルゴ13のように公邸を見続けるA氏など今や各社の重鎮たちの若き日を、扉のないトイレを共用した同居人として鮮やかに思い出す。また、フジモリ政権に人質の人権を無視した武力突入をさせない抑止力として、自分たちは常に見守る使命があるんだという、日本人としての連帯感も部屋にはあったと思う。

H氏と公邸でセルパを一緒に取材した山本カメラマンの帰国後、時事のカメラは若い宮田カメラマンと私2人だけ。16階「定点」ベタ張りの空中勤務と、直接交渉や大統領会見を取材する遊軍の地上勤務を、日没を境に24時間交代ですることにした。「定点」での食事は現地のスタッフに運んでもらい、撮影の邪魔になるためガラスを取り払った窓脇の折り畳みベッドで、睡眠を取った。雨が降らないリマで夏だから出来たのだと思う。地上勤務の時にやっと、写真電送用に近所に借りたマンションのベッドで手足を伸ばして眠れた。そして公邸から2キロ離れた邦人民宿に開設された臨時支局との連絡や、買い物や洗濯などの身の回りのことは、地上勤務の合間に済ました。24時間ベタ張りにこだわったのは、当時すでにトンネル工事が行われている情報があり、ゲリラたち同様に政府側の夜襲を一番警戒していた。後から思えば、私が居た2カ月余りはトンネル掘りや特殊部隊訓練のためにフジモリが時間稼ぎしていた時期で、昼は突然キューバのカストロと会見したりする彼お得意の政治パフォーマンスに、夜も結局は見えない敵に振り回されただけだった。

物悲しいMRTAの革命歌で目を覚まし、電気が止められている公邸の窓に映るろうそくの明かりが消えると一日が終わる単調な日々が続いたが、時にはゲリラが前夜の嵐で倒れたMRTAの旗を直しに公邸屋上に出て来たり(=写真、3月5日)、公邸の庭に埋められた地雷が暴発して、地響きとともに住宅街の鳥たちが一斉に飛び立ったりした。そして3月には宮田と後任の渡部カメラマンが交代。4月に入って石原カメラマンがリマ到着。私は現地でたまった代休を数日消化して帰国することになった。

学生時代にスペイン、ポルトガルを旅してラテン系の楽天的な生き方に惹かれた私にとって南米はあこがれの地である。人質になった人々を思えば不謹慎ではあるが、帰国直前に3日間のクスコやマチュピチュのインカ遺跡、ボリビアとの国境にあるチチカカ湖への地元ツアーを申し込み、その出発前日は疲れていたのでリマ市内で過ごすことにした。そして、プライベートな写真は白黒で撮ることにしていた私は、カメラを私物のマニュアルピントのもの1台だけにして、取材でも行った港町カヤオへ向かった。

日系移民が初めて上陸したという古い街並みでスナップ撮影を続け、あるカテドラルの前に立った時だった。険しい目付きの男性が寄って来て、身分証の提示を求められた。私服の警察官だった彼は、フジモリ政府発行の記者証を一瞥すると「ここは危ないから立ち去れ」と言う。陽はまだ高かったが、翌日の旅行を考え引き揚げることにした。そして昨日までの張り番生活を思えば、遊んでこのまま帰るのも気が引けて、最後に港の端にあるMRTAの幹部ら政治犯を収容する監獄の資料写真を撮ろうと思ったのが間違いだった。

地元スタッフが教えてくれた治安の悪い地区を迂回して海岸へ出ようとしたが、スラムに入ってしまった。大勢の大人が路上にたむろし皆がこちらを見ている。アジアのスラムを経験している私の中で警戒音が鳴った。落ち着けと自分に言い聞かせ、近くに居た身長190センチはあるアフリカ系の若い男性が人懐こそうな目をしていたので、海の方角を聞いた。私が指差した方を見た彼は驚いて首を横に振り、「シュッ!」と言って首を掻き切る仕草をした。このまま進めば命が無いということか。

見るからに気の良い兄ちゃん然とした彼が手招きして来いという方向が、私の頭の中の安全地帯である大通りの方向と重なったので付いて行った。そしてその大通りに出ると、礼を言ってタクシーを拾おうとする私の肩をたたき、彼は1ブロック先の交差点を指差した。スラムから離れたその通りを行けば安全に海岸に出られるらしい。途中で友人と笑顔であいさつしたりする彼にすっかり騙され、馬鹿な私は海辺の土手まで誘導されてしまった。土手を登ると確かにそこは海だったが目的の監獄は岬に阻まれ見えず、目の前に広がる砂浜は何と危機を避けたと思ったスラム裏のゴミ捨て場だった。

後ろから突き倒され、両肩をがっしり押さえ込まれた。途中であいさつした仲間に連絡が取れたのか、ボロ布を手に巻いてワインボトルや角材を持った7~8人の少年から青年が私を取り囲んだ。抵抗しても多勢に無勢でカメラが真っ先に盗られ、旅行用に支局から借りたドル札が何枚も入っている札入れが抜かれ、ペルーで買ったばかりのスニーカーとジーンズが脱がされた。これで終わりかなかあと思いつつ、誰か聞いてくれと「POLICIA!」と声が枯れるまで叫んだ。そして不注意でこんな所まで来てしまった自分の情けなさを、妻と娘に詫び続けた。カメラマンジャケットが破られ、Tシャツが胸まで脱がされかかったところで突然、彼らの手が止まった。私服警官に提示させられた後、首から下げていた記者証を皆が見ている気配がする。その時一瞬、私の両肩を押さえ込んでいたバナナのように太い黒い指の力が抜けたように感じられた。右手が動いたので、とっさにそのバナナの房の中でも一番大きい中指をつかんで、全身の力を込めて折った。鈍い音がしてバナナは手の甲に付いたように見えた。

体が自由になった私はこの機を逃さず、顔の脇に落ちていたツルがひしゃげて片方のガラスだけになった眼鏡を拾い、全力で走り出した。土手脇の家から子どもを抱いた女性が見ていたので、もう一度「POLICIA!」と叫んだが、激しく首を横に振って大通りの方を指差した。十分過ぎる戦果を挙げたせいか彼らは追って来なかったが、Tシャツとパンツ、靴下だけの日本人は大通りまで走り続けた。その格好でタクシーを止め、またもや記者証のおかげで民宿までたどり着いて部屋の鏡で自分を見ると、押さえられた時に付けられたバナナの房形の内出血がタトゥーのように両肩に付いていた。

2カ月間の滞在中に首都リマとシプリアニ大司教に付いてアヤクーチョという街に行っただけだったが、極端な貧富の差のせいかペルーの印象は暗く感じられた。チェ・ゲバラの肖像が至る所に描かれたスラムと、一辺数百㍍もコンクリートの高い塀が続き、監視カメラと私兵に守られた富豪の家。事件後このままの印象で帰国するのは悔しいので、翌日からのツアーはキャンセルせずに強行した。警察への盗難届けが夜中までかかり、睡眠不足でクスコに着いたためひどい高山病はなったが、結果から言ってその成果は十分得られ、私はまたペルーが好きになれた。

最終日に訪れたチチカカ湖にはアシで出来た浮島がたくさんあり、先住民族系の人々が住んでいる。その島の1つに国内のマイノリティーに人気があるフジモリ大統領博物館が出来たらしい。ツアーのコースには無くてこの目で確認出来なかったのが心残りだが、「彼が援助物資として送った小型自動車を走らせたら島が沈み始めたので、使うのを止めて博物館にした」と、英語の先生の資格を持つ通訳が笑って教えてくれた。現地の実情に合わないバラ撒き政策を揶揄しているようにも取れるが、仕事が無く観光客の通訳で生計を立てている彼女は、フジモリ政権が力を入れた教育の機会均等政策を高く評価していた。「これからよ」と。

4月10日、桜が終わったばかりの日本に着いた。そして22日、フジモリ大統領はペルー軍特殊部隊に大使公邸の突入を命じた。その時刻は私もゲリラも油断していた午後だった。後に「リマ症候群」という心的相互依存症が報じられるほど、人質にゲリラも心を開いていた結果なのかも知れないが、MRTAのメンバー14人全員と人質1人、兵士2人が死亡し、発生から127日ぶりに事件は武力解決した。繰り返し放送されるその瞬間のTV映像を見ながら、ついこの間まで目の前で見ていた日常の延長なのに、私にはひどく遠い世界の出来事に感じられた。やっと事件が終わったことを認識しながらも、地球の裏側まで行ってたいした仕事もせず、暴力に対して全く無力だった自分が、最終的に相手の中指を折る暴力を行使した記憶が強過ぎた。出来るだけ早く全てを忘れたかった。

そんな私が事件解決の翌日、ペルーのあの日常に引き戻された映像があった。それは、ゲリラとフジモリ大統領に何度も直接対話を呼び掛けたシプリアニ大司教の記者会見だった。平和的解決に全精力を使った彼が、17人も死者を出した自分の無力を嘆き眼鏡を外して目頭を押さえた瞬間、私の中で何かが弾け、私は泣いた。

あれから16年、世界中持てる者と持たない者の差はよりいっそう開き、持たない者はテロという暴力で、持てる者と刺し違えることが増えた気がする。お金を払ってどちらも死なない日本的な超法規的解決という選択も、国際的に難しくなった。フジモリ大統領の失脚後、ペルーは日本人にとって少し遠い国になった気がする。通訳の彼女が望んだ未来はどの程度実現出来たか分からない。今年1月にアルジェリアで起こった人質救出作戦に比べれば、はるかに成功したフジモリの武力解決だったとは思う。しかし、その解決法は持てる者が持たない者に行使する暴力には違いなかった。あのバナナが折れる鈍い音は、一生私の心のどこかに刺さった棘のまま終わるかも知れない。