日本新聞博物館主催の「2011年報道写真展 記者講演会」が12年2月4日(土)、同館のニュースパークシアターで開かれました。あまり知られていない写真取材を一般の方々に知っていただき、写真ジャーナリズム全般の理解を深めてもらおうと企画されました。講演したのは、2011年東京写真記者協会賞の受賞作「ままへ」を撮影した読売新聞東京本社立石紀和記者の当時直属の上司であった池田正一写真部長(現編集委員)、スポーツ部門賞・海外の部「死闘制し、なでしこ頂点へ」を撮影した共同通信社写真部・鈴木大介さん。コーディネーターとして東京写真記者協会事務局長・花井尊が参加しました。新聞紙面に出ない裏話や、デジタル時代の報道写真などをディスカッション、会場からの質疑応答の抜粋です。

[冒頭あいさつ]東京写真記者協会事務局長・花井尊
本日は寒い中、満員の人たちが記者講演会に来ていただきまして感謝します。まず、ざっと東京写真記者協会の組織を説明させていただきます。ホームページに載っていますが、首都圏に本社を置く新聞社、通信社、放送(NHK)の各社と一部地方紙が加盟している任意団体です。平成24年1月現在の加盟社は34社です。当協会の目的は、自由公正な写真取材のため、連絡、調整を行い、写真報道を通じて社会の進歩発展に寄与することです。また、年末に日本橋三越本店、年始に、この日本新聞博物館で開く恒例の報道写真展を開催し、その記念写真集を出しています。それでは、順番に講演をお願いします。

[第1部受賞報告等]抜粋
◎「ままへ」
読売新聞東京本社写真部長(当時)・池田正一

▼ 受賞作品の概要・経緯・ねらい
読売新聞の池田です。まず、3・11大震災が発生した日の読売新聞東京本社の編集局の紙面作りのための会議風景を見てもらいましょう。

当日組む新聞をどのようにするかを決める会議で、昔は大相撲の幕内土俵入りのように円陣を作って行っていたため社内では「土俵入り」とか「立会い」とかと呼ばれています。発生から2時間経たないうちに編集局以外の販売、広告、制作、メディア対応の関係者も集まり会議が始まりました。平時の5倍以上の人が集まったようです。各地の印刷工場も震災で被害を受け、輪転機が使えるかどうかわからなかったですし、高速道路などの交通網が遮断され新聞を刷っても配達する販売店へ持って行けるのかどうかわからないまま、新聞のページ建てや内容についての話し合いが行われました。現地の様子も含め、すべてに情報不足でみんなが大きな不安感を持っていました。この写真では見えませんが後方の壁には大きな亀裂ができていました。すでにこの時には、写真部を始めとする取材陣は乗用車や本社所有のヘリコプターなどに分乗、現地へ向かったあとです。札幌、新潟、名古屋、大阪、福岡からも被災地へ写真部員が向かいました。

次に当時私の部下であった立石紀和記者が撮影した4歳の女児の話しをさせていただきます。その前に、1万6,000人もの命が奪われ、未だに3,400人近い方が行方不明です。あらためて命の尊さを考えるとともに、亡くなった方のご冥福を祈りたいと思います。
当時、立石記者は震災直後に被災地入りしたのではなく、5日ほどたってから取材第2陣として現地入りしました。直接的な大津波被害を取材するのではなく、被災した人たちは今どうなっているのだろうとの思いで、1軒1軒人影がありそうな家を訪ねたそうです。そして岩手県宮古市の高台にある家の玄関を開けた時に、出迎えてくれたおばあちゃんの後ろから顔を出したのが女児でした。その沈んだ暗い表情が気になり、事情を聞いてみると、両親、妹と一緒に津波に流され一人だけ漁に使う網に引っかかって救助されたということでした。

立石記者は取材の合間をぬって、毎日女児に会いに行きました。カメラを持たずに、そして遊び相手になるために。5日ぐらい経って、女児が「ままに手紙を書く」といってノートに1字1字幼児雑誌でひらがなを確認しながら書いたそうです。「ままへ。いきているといね おげんきですか」と書き終えたところ、寝入ってしまったそうです。立石記者は外に置いてあるカメラを急いで取りに行きこの写真を撮影しました。被写体となった女児との心の距離をすこしずつ埋める努力を続けて撮影しました。この写真が震災のため、両親や家族をなくしてしまった「震災孤児」に初めてスポットをあてたのではないでしょうか。

読売新聞写真部では、発生直後の被害状況の報道のほか、震災孤児など人の絆とか愛情とか苦しみをどのように報道すべきか毎日議論を重ねて紙面を作ってきました。そして震災孤児を真正面から取り上げようと新聞1面と社会面で大きく扱うことになったのです。

私もこれまでいろいろな現場を踏んできたつもりですが、今回の大震災はどう指揮していったらいいのか戸惑う場面が確かに多くありました。2か月後に掲載した写真グラフにある母親の写真に見入る女児の写真をみると・・。彼女が母親から受けるはずだった愛情の大きさを思うとこの笑顔が切なく、やりきれません。小さな背中にどんな声をかければいいのか・・。
(池田氏、感極まって涙。会場の多くの方ももらい泣き=注:花井)

6月には、母親の遺体がDNA鑑定で見つかり、遺骨が無言の帰宅をしました。女児は「これがママ?」と一言だけ口にしたそうです。お父さんや妹はまだ行方不明ですが、葬儀があわせて行われたそうです。震災後ずっと見守ってきた記者によると、泣くこともなく現実を小さな体で受け止めようとしているようだったそうです。

今回この写真が、優れた報道写真に贈られる東京写真記者協会賞の年間グランプリに選ばれたことで、岩手県の児童福祉課の方から写協事務局あてに「人権侵害」との抗議の手紙が届いたそうです。読売新聞の報道で、震災孤児の問題が深刻だということを初めて皆さんにお知らせできたわけですし、掲載からの女児の心のケアも専属の記者を担当させて継続させています。女児のおばあちゃんからは掲載されたことで震災孤児の問題がみんなに知らされることになったと言っていただきました。取材した立石記者は現在米国に留学、写真の勉強をしていますが、今年9月には写真部へ復帰します。そして女児が成人するまで見守り続けることになります。本人は女児の花嫁姿の写真を両親に供えたいと誓っています。

〈花井〉池田さん、ありがとうございました。大震災直後の新聞社内の動きなど普段一般の人たちが知り得ない貴重な写真と話が興味深かったです。また、「ままへ」を取材した立石記者の気持ち、読売写真部が目指した報道理念も十分伝わってきました。われわれは賞をとるために写真を撮っているわけでもなく、震災孤児への関心を喚起するのに貢献したと自己満足しているわけでもありません。報道は確かに多方面にさまざまな影響を与えます。いいこともあるし悪い影響もありえます。ただ「これだけは伝えたい」という強い理念があってこそ読者、国民に理解されるものと思っています。
続きまして、スポーツ部門賞の共同通信社の鈴木さんにお願いします。

◎「死闘制し、なでしこ頂点へ」
共同通信社ビジュアル報道センター・写真部 鈴木大介

▼ 受賞作品の概要・経緯・ねらい
共同通信の鈴木です。サッカー女子W杯取材について講演させていただきます。初めに断っておきたいのですが、私が取材したのはあくまで決勝戦の1試合のみです。後輩カメラマンが予選からずっと取材していて、私は応援要員として取材に関わりました。決勝が現地時間の11年7月17日だったのですが、ちょうど五輪の1年前企画取材で15日からロンドン入りが決まっていました。企画取材といっても序盤は忙しくないので、日本がドイツ戦に勝利した時点で自分からデスクにアピールし、出発直前に取材が決まりました。慌ただしくFIFAに取材申請を出しましたが、肝心のフィールドパスの申請が間に合わず、「ウェイティング」というカテゴリーに入れられてしまいました。これは全てのカメラマンが席を決めてから、最後に余った席に入るというものです。決勝戦当日、カメラマンは150人ほどいて、最終的に私の席が決まったのは試合開始1時間前でした。ちなみに、日本人のカメラマンは私を含め8人で、新聞メディアは共同通信だけでした。

ここでサッカー国際戦の取材位置について説明します。席はゴールを決めた選手がベンチに向かって喜ぶシーンが撮れるメインスタンド側から埋まります。ここは席の優先権を持っている後輩に、そして私はバックスタンド側の席を交互に行き来することにしました。純粋にW杯の決勝戦を取材に来ている欧米カメラマンはサイドが変わるタイミングでも一切席を移動してくれません。そうした内心ひやひやの状況で試合を迎えることになりました。

さて、これからは実際に決勝戦当日について写真を紹介していきたいと思います。まず、余裕のある試合開始前に応援雑観を撮る。前半は過去23試合対戦で0勝21 敗3引き分けの成績が示す通り、圧倒的な高さを誇る米国の猛攻をなんとか凌ぐという形でした。この段階では、競り合いなどのプレー写真を随時送信します。やはり注目はワンバック選手と沢選手です。そして後半、米国が先制します。当然と言えば当然の展開で、「負けたけどよくがんばった」という紙面になるのかなと考えていました。

しかしその後すぐに宮間選手が同点ゴールを決めます。ゴール後に宮間選手がたいして喜びもせずにすぐにボールを拾い駆けだす姿を見て、「選手はまだ全然諦めていない」と、気持ちを引き締め直しました。

そのまま一進一退の攻防が続き試合は延長戦へ。そして延長前半、ついに米国のワンバック選手に勝ち越しゴールを決められてしまいます。頭を抱えているのは沢選手です。この瞬間、「沢選手のためのワールドカップが終わってしまう」と思いました。この時点で『感動をありがとう、沢、』というスポーツ紙の一面が頭に思い浮かび、今後は沢選手だけを追いかけることにしました。特に試合終了時の沢選手の表情と、喜ぶ米国選手の「明暗写真」は絶対必要になるはずだと。

そして延長後半12分にCKのチャンスを獲得。そしてついに奇跡の同点ゴールとなるわけですが、このシーンは私が撮影した全コマを紹介したいと思います。

宮間選手の鋭いCKに反応して、沢選手が飛び出します=写真①。倒れ込んだ後に一瞬、=写真②③、間をおいて喜びが爆発=写真④。私もここで「えっ!入ったんだ」とわかりました。そのまま沢選手は日本ベンチではなく、宮間選手の方へ駆けだします。サッカーの国際戦を何度も取材してきましたが、ゴールもその後の喜びもバックサイドで決まったのは初めてでした。奥には丸山選手など何人も詰めていて、「初めから沢選手だけを見る」と決めていなければ撮れませんでした。逆にいえば、他の選手が決めていたら撮り落としていたわけです。普通はボールに反応してゴールシーンを狙うため、このようにシュートの前のコマがあること自体あり得ないことです。まさに「大ばくちがはまった」わけですが、それでも頭に浮かんでいたのはやはり「沢選手は運や才能を持っている人だな」というものでした。

ですがまだ試合に勝利したわけではありません。米国の最後のフリーキックを選手全員で凌ぎ、PK戦に突入します。事前に後輩とPK戦の配置について相談していて、後輩はゴール周りに、私は反対サイドにつきました。1本目、GK海堀選手が右足でスーパーセーブを見せます=写真⑤。

2本目はクロスバーの上でした。この時点で圧倒的に日本が有利になったため、慌ててメインスタンド側の位置に移動しました。そもそもPKというのは決めて当たり前というもので、キッカーよりもGKの写真が重要になります。3本目も好セーブ。この時点で勝利を確信しました。そして最後のキッカー、熊谷選手が決めて日本のW杯初制覇となりました。歓喜の瞬間、選手たちは一斉にGK海堀選手のもとへ駆けだします。この時一人だけ歓喜の輪に加わらない選手がいました。宮間選手です。彼女は米国選手をねぎらいに歩み寄っているのです。私はこのシーンが一番感動しました。もみくちゃになりながら子供のように「やったー、やったー」と叫ぶ沢選手の姿が印象的でした。

その後、すぐに表彰式が始まります。沢選手の「せーの」の掛け声でトロフィーを掲げ、少し遅れて金の紙吹雪の乱舞=写真⑥。

こういう1シーンも広めやアップなど撮りわけます。その後、東日本大震災への各国の支援に感謝する垂れ幕を持って場内を一周します。その中で、岩手県滝沢村出身の岩清水選手は「皆さんのことを忘れたことはありません。ともに進もう東北魂」というメッセージを掲げていました。今度の五輪もきっとこういう震災関連の社会面が多くなると思います。

沢選手は大会MVPと得点王にも輝き、まさに「沢穂希のためのW杯」になりました。「記憶に残る名勝負」でしたが、私は翌日ロンドンに戻ってしまったので、日本の盛り上がりを今ひとつ実感できず、それが少し心残りです。駆け足でしたが、TVで放映されなかった角度の写真を皆さんにお見せできたかなと思います。

〈花井〉鈴木さん、ありがとうございます。女子サッカーW杯取材の舞台裏がよくわかりました。会場の皆さんも普段紙面で何気なく見ているスポーツ写真も、こんなに苦労しているのだという現実や写真記者の取材に対する情熱を知っていただいたと思います。

[第2部ディスカッション、質疑応答]抜粋
コーディネーター:東京写真記者協会事務局長・花井尊
〈花井〉それでは只今から第2部ディスカッションを始めます。講演者のお二人から日ごろの取材活動や、紙面では語り尽くせないこと、裏話などをお話して頂きます。また、デジタル時代の報道写真、今ジャーナリズムが求められていることなども合わせてお聞きします。まず池田さん、写真部長を経て現在編集委員ですが、これまでのあなたの現役時代の写真記者生活で一番印象に残っている取材は何でしたか。

〈池田〉1987年だったでしょうか。エイズが世界的規模で広がりつつあるときに、アフリカ取材で生まれて間もないエイズに感染している乳児を見たときでしょうか。衝撃を受けました=写真⑦。

ザンビアの病院でした。当時はエイズの知識がまだなく、「空気感染するかも。息はできない」と思いこんだことを恥じています。それと侵されつつある地球環境の取材で、サハラ砂漠やアマゾン川の奥地に派遣されたことでしょうか。2~3日食わなくても死なないだろうということで。丈夫そうだからということでそれこそ環境の悪いところへ出されました。アマゾン川取材では水銀汚染されているといわれる魚が毎食出てくるので、3日なにも口にできませんでした。

〈花井〉まだ現役で若い鈴木さんはいかがでしょう?一番印象に残っている取材は、またはうまくいった取材、大失敗な取材など。

〈鈴木〉 印象深い取材はやはり東日本大震災取材です。私は震災発生の時、ちょうど東京都庁で石原都知事の再選出馬表明の取材をしていました。発生後すぐに会見が中止になったので、近くの公園に避難してきた人たちを撮影し、携帯電話が通じない中、すぐに本社へ引き返すことにしたのですが、高速がストップし外は大渋滞で、結局6時間かけて汐留の本社に戻りました。その時点で、第1陣はすでに東北に向かったあとでした。その後、現場に行けない焦りややるせなさを感じながら、東電や首相官邸や計画停電の取材などをしていました。当時の私の個人的な感覚なのですが、「今、現場に行かないと明日にはなくなってしまう」だとか、「先行しているカメラマンが現場のあらゆる写真を撮り尽くし、私が行った時には『もうこの写真はみたことがあるから、いらないよ』なんて状況になってしまっているのでは」と疑心暗鬼に陥っていました。

結局私は第2陣として、震災発生6日後に現地入りしました。息巻いて現場に入り、壮絶な被害状況や被災者の方たちを場当たり的に取材することしかできなかったですね。結果としてその日ごとの紙面には使われましたが、皆さんの記憶に残るような写真を撮ることはできませんでした。ちょうど同じ時期に同じ岩手に滞在していた立石さんは「ままへ」の写真を撮られていて、自分がいかにスケールの小さい人間か痛感しました。先ほど、撮影する以前に何度も通っていたとうかがい、私にはカメラマンのマンの部分、ゆっくりじっくり人として被災者の方と向き合うことができなかったのでは、と思いました。これが反省談ですね。

〈花井〉デジタル化で新聞写真は大きく変化したわけですが、鈴木さん、何か感想はありますか?

〈鈴木〉我々にとって、デジタルになったもっとも大きな点は、カメラマンがエディターもやらなければならなくなったということでしょうか。フィルムの時はバイク便でフィルムを本社へ送り、デスクが全コマに目を通して、出稿写真を選んでいたわけです。デジタルになってからは、たとえ1年生であろうが、夕刊段階の忙しい時間帯などは、自分で一番いいコマを迅速に選んで送信しなければならないのです。私は今でも、後から見直して、「やっぱりこっちのほうが良かった」なんてことがありますし、日ごろからいい写真を目にする機会を増やすようにしています。

〈花井〉原発取材はどんな対応をしましたか。

〈池田〉福島第1原発が水素爆発したのは12日午後だったと思いますが、その直前、原発から2キロぐらいまで、写真部員が入っていました。爆発した瞬間はもう別の取材があり離れていましたが、すぐさま会社が定める原発事故取材の規定にある原発から30キロ離れるよう指示しました。本社の科学部の判断も同様でした。線量計は当初なく、近くの支局から取り寄せました。事故の情報公開も進まなかったことから、福島入りする部員の交代のローテーションは早くしました。累積した線量は記録しています。爆発直後に福島県内で取材した部員が体調不安を訴えたので、専門家のカウンセリングを受けさせました。

〈鈴木〉震災の取材は、ほぼ2カ月に1回は、岩手や宮城に行っていますが、福島にはまだ、一度も入っていません。ヘリからの空撮で、30キロ以上離れたところから第1原発を超望遠レンズで撮影したことがあるくらいです。各社それぞれに方針があり、共同通信は今までなるべく年次が上の人が福島をまわすようにしていました。

〈花井〉原発事故の発生直後は、フリーランスのカメラマンが福島第1原発のかなり近い周辺を取材した実績があります。大手の新聞社、通信社は記者の健康管理、当局の安全対策からどうしても取材の縛りがきつく、勝手に近づけなかった事情があります。当初から各社とも東京電力や首相官邸に対し、取材させるよう要望は出していましたが、事故8ヶ月後の11月になって初めて代表取材の形で敷地内の現場が取材できました。

〈花井〉現場で被災者に対する肖像権など、特に気を配った点はありませんか。

〈池田〉取材したときに必ず被写体となった人に声をかけるよう徹底しました。名前や被災した状況などしっかり取材するようにしました。

〈鈴木〉声をかけてから撮影することを第1に考えていますし、被災者の方が映った写真の外部への販売も、社の規定で生ニュース用の一時使用に限っています。被災地の方々は本当に優しい人ばかりで逆にこちらが元気づけられてしまったりします。これからも誠意を持って被災地での取材に臨みたいと思います。実際のところ、がれきの中からご家族の遺体が発見されて涙の対面をはたしていた被災者に対し、欧米系のカメラマンがワイドレンズで突っ込んでいく様子を見て、腹立たしく怒ったこともありました。無理強いしてまで撮る写真に何の意味もないと思います。

〈花井〉いつも出てくる質問ですが、1枚の写真と動画問題はどう捉えていますか。また、どう対応していますか。

〈池田〉写真と動画の取材方法や被写体に対する感性は違います。社内には動画から静止画を切り出せばいいという乱暴な意見もありますが、やはり写真と動画では、脳の記憶の引き出しに入れられる要素が違うと思います。皆さんの多くの記憶は静止画ではないですか。

〈鈴木〉今、私の所属はビジュアル報道センター、写真部です。「ビジュアル」の名のごとくビデオカメラも一人1台配布され、動画の撮影も行います。ただし、いずれの場合も写真優先です。ヘリ取材の時には「最後の一周、動画用にお願いします」とパイロットにお願いしたりします。動画を止めたこま落としの画像は多少なりともぶれたものになってしまいますし、秋葉原の殺傷事件の容疑者逮捕の写真や、カダフィー大佐が捕まったというような緊急性が高い写真以外は、こま落としに意味はないと思います。被災者の声にならないうめきや嘆きを伝えられるのは動画ですが、声にならないうめきが聞こえてきそうな静止した写真も、それはそれで読者の感性に訴える力があると思います。
被災地のお年寄りと話していて「なるほど」と思ったのですが、「TVは早すぎてついていけない。新聞写真は自分のペースでゆっくり咀嚼できる」と話される男性がいました。私もその通りだと思いますし、両者のいい部分を生かしていければよいのではないでしょうか。

〈花井〉お二人がおっしゃる通りだと思います。要するに、カメラでもビデオでも「何をどう記録して伝えるのか、どう問題提起するのか」ということでしょう。手段が違えばメッセージ性は若干違ってきますが、目指す目的は同じだと思います。個人的には一枚写真の静止画の方が脳裏に焼き付くメッセージ性が強く好きです。

〈花井〉次に「べき」論で恐縮ですが、報道写真は、今後どうあるべきだと考えますか。または写真ジャーナリズム全般について何か持論がありましたらお願いします。

〈池田〉震災取材の話をしていますのでその延長で。取材する記者が被災者の気持ちを共感していないといけないと思っています。今後も被災者と向き合って街の復興を願いながら記録し続けていきたいと思います。生活再建やふるさとの復興を伝え続けることは私たちの責務です。

〈鈴木〉東日本大震災の取材は今後もずっと続いていきます。つい先週も岩手に入っていたのですが、10カ月以上経過しても「まだまだ」という印象です。報道写真は、できる限り被災者の心に寄り添えるよう努力しなければなりません。被災者の方々は「忘れられてしまう」ことを何よりも恐れています。できる限り被災地入りし、全国各地の地方紙にニュースを配信できる通信社の特性を生かして、精力的に復興に向かって歩み続ける方々の取材を続けていこうと思います。
生ニュースに左右されない企画キャンペーンなど、いくらでもやり方はあるはずですので。個人的な話で恐縮ですが、私はこの夏のロンドンオリンピックで陸上を担当します。昨年の世界選手権の取材にも行ったのですが、金メダルを獲得したハンマー投げの室伏広治選手も、交流のある石巻の生徒たちに向けてメッセージを発信していました。「被災地に元気を与えたい」と頑張る選手のメッセージを伝えられるのも、我々の大事な役割ですし、プレー写真以上に力を入れて取材に臨みたいです。

〈花井〉本日は興味ある多くのお話を聞かせていただき、大変ありがとうございます。では、さきほど会場から回収しました質問用紙から伺います。まず池田さんへの質問です。「ままへ」をピューリッツア賞に応募することは考えていないでしょうか。また、今年から新聞記者として働く者です。載せたくてもボツになってしまう写真はたくさんありますか。心残りのコマはどんな写真ですか。掲載する写真を決定する判断基準を教えてください。震災取材のような時の記者の心的ケアは行なっていますか。

〈池田〉まずピューリッツァー賞は自薦できなかったと思います。世界の報道写真を集めた年間コンテストの世界報道写真展への応募はしました。読売新聞の写真部員にはPTSDのような心的影響はありませんでした。被災地には1週間から長くても10日間を限度で交代しています。震災直後は目を覆うばかりの衝撃的な情景があったと思いますが、全員が命と向き合ってくれたと信じています。

〈花井〉ある地方紙の報道部長に聞いた話しですが、押し寄せる大津波に巻き込まれる家屋や人たちを目の当たりに見て、現場の記者たちはかなり強い衝撃を心に受けたそうです。PTSD(心的外傷後ストレス障害)にかかった記者もいたと聞きました。心的ケアのため記者全員のカウンセリングをして、内勤に勤務変更をさせた記者もいたそうです。被災者はもちろん大変ですが、報道する方もかなりダメージを受けていたことになります。

〈花井〉では鈴木さん質問ですが、サッカーの取材は1試合何枚くらい写真を撮りますか。そして何枚くらい加盟者に出稿するのですか。テレビ映像に負けないくらい躍動感がある写真を撮るために心がけることや事前準備は何ですか。場所とりが勝負なのか、勘の力が勝負どころか教えてください。

〈鈴木〉今はフィルム時代と違って押せば押しただけ撮ることができます。今回のような極めて注目度の高いサッカー取材に関して言えば、1000枚や2000枚以上です。この中で出稿された写真は本日紹介したものを含めて100枚ほどでしょうか。それでも実際に紙面化される際には、それぞれの新聞社の好みで写真をセレクトします。「沢の同点ゴール」のシーン一つを取り上げても、「シュート」の写真を大きく使ってくれた新聞もあれば、その後の「ガッツポーズ」の写真を使った新聞もあります。今回の取材の勝因は、まず「他社がいなかった」こと。そしてPK戦などあらゆる局面を後輩と相談して、「パニック状態に陥らなかった」ことです。そうした事前準備があった上で、沢選手にほほ笑んでくれた「サッカーの神様」に、私も少しだけあやからせてもらった、という感じです。
私はスポーツが専門というわけではなく、政治や事件、自然などなんでも取材します。いずれの取材にしても「力の抜きどころを見極めること」を心掛けています。自分が撮った写真が加盟紙の紙面上ではトリミングされて使われたり、グラフ記事の署名を削られてしまい、ちょっぴりさみしい思いもします。ただその半面、通信社は取材の幅が広く、海外出張も多いといういい部分も多くあります。

〈花井〉本日は貴重な話し、感動的な話しをたっぷり聞かせていただき、厚くお礼申しあげます。今後も精進して読者、人々との信頼関係を築きながら前へ進んでいただきたいと思っています。これで2011年記者講演会を終わります。

〈新聞博物館に寄せられた講演会アンケートの感想〉抜粋
○写真だけでは目の前に映る事実しか飲み込めず、あたかもそれが、自分とは全く関係のない別世界で起こっているような錯覚さえも起こします。しかし、記者の方が取材を重ね、考え、感じた言葉によって、目の前の事実を、現実として実感されるのだと感じました。見ただけでは分からない写真の裏を知ることで、改めて、身の細る思いで撮った記者の方の魂を感じました。マスコミは腐敗したというが、報道は変わらず輝き続けるのだと思いました。(20代・女性)
○「カメラは冷たくても押す人間は被災者と同じ気持ちであるべき」というお言葉が心に響きました。写真記者を目指しているので頑張ります。(20代・女性)
○池田氏のお話を聞き、女児の成長を今後も見つめていこうとする取材方針に感動しました。是非続けていただきたいです。また、鈴木氏のお話からは、普段分からないスポーツ取材の難しさを知ることができました。報道と人権は、今後もぶつかり合う問題だと思いました。(40代・女性)
○なでしこジャパンの写真取材は、ゲーム展開の決定的瞬間をよく捉えていることに感心しました。(60代・男性)
○東日本大震災の状況はまだ生々しく、声を詰まらせながら講演した池田氏の話を、私もふるさとを失った者なので、胸がつぶれる思いで拝聴しました。これからも大切に取材してください。(60代・女性)
○池田講師同様に(「ままへ」に)何度も泣かされました。立石さんの写真「ままへ」は国宝クラスの写真なので、大切にネガを保存してください。写真の力を新ためて認識しました。ありがとうございます。(70代・男性)
○新聞記事の一枚の写真から伝わってくるもの、受け取れるものがたくさんありますが、やはり撮り手が伝えきることのできない部分も多いことを実感しました。同時に、新聞の力も感じました。一枚の写真で会場が涙し、一枚の写真で会場が笑顔につつまれる。とても一体感のあるイベントで、今後も、記者が発信するイベント、記者と読み手が交流するイベントをどんどん開催してほしいと思いました。読者の知的欲求も満たされ、記者の「伝えきれなかった」部分も伝えられ、一石二鳥だと思います。(20代・男性)
○現場で取材された方々の生の声を聞けて、紙面での感動がさらに深まり、蘇りました。参加できてよかったです。ありがとうございました。(60代・男性)
○「ままへ」が新聞に載るまでの裏側、記者の方の心遣い、優しさ、努力によってこの作品が生まれたことに感動しました。何度見ても、涙があふれ出てとまりません。立石さんに代わってお話しくださった池田さん、ありがとうございました。鈴木さん、裏側の仕事の大切さを見せていただきました。ますますのご活躍をお祈りします。(60代・女性)
○報道は真実を伝えるだけではなく、心をこめて人間の本質を伝えるということが大事なのだと改めて感じた。写真を見て、心から感動するのは、撮り手の心が入っているからなのだと、今日の講演会で良く分かりました。(60代・女性)
○池田氏の話はリアルで、涙が止まらなかった。女児へのとても人間的な対応に感動しました。花嫁姿の報道を楽しみにしています。早く素敵な人と出会ってね、私は長生きして待っています。なでしこジャパンの優勝にはどんなに元気づけられたか分かりません。女子パワーを再確認しました。これからもリアルな報道を待っています。(60代・女性)
○報道カメラマンは被写体(特に人間)に対する限りない思いやりの心をもって撮っており、それが、結果として写真に現れているのだということを改めて感じました。写真の裏に隠されたものを強く認識した講演でした。ありがとうございました。(70代・男性)

〈新聞博物館に寄せられた「2011年報道写真展」の感想〉抜粋
○三越日本橋店でも昨年末に拝見しました。展示で一年を振り返ることができる面白さがあります。毎年、会場に足を運んでおります。(20代・男性)
○感動的な写真であり、2011年の貴重な記録だと思います。特に、東日本大震災の写真や、大震災や不景気によって暗い時代に、なでしこジャパンのサッカー女子ワールドカップ優勝が私たちに明るさをもたらしてくれた折りの写真は印象深く、心に響きました。撮影には大変なご苦労をされたことと拝察します。(70代・男性)
○改めて東日本大震災の激しさにショックを受けました。今、被災地の皆さんがどうされているかと思うと切なくなります。(60代・男性)
○大震災の生々しい記録が映し出されていて、復興状況の比較も見られて、感激した。一瞬一瞬を大事にすることの重要性を感じました。(70代・男性)
○ただ写真を撮るのではなく、何を訴えたいかというポリシーが、良い作品を生み出したのだと、感銘を受けました。カメラマンよ、頑張れ!(70代・男性)
以上