コラム
「ノーベル文学賞」
今年のノーベル文学賞が日系英国人作家のカズオ・イシグロ氏に授与されることが決まりました。自然科学系3賞で受賞者が出なかったこともあり、紙面では「日本人受賞者」として微妙な盛り上がりを見せました。
イシグロ氏は長崎市で日本人の両親の元に生まれ、5歳のときに英国に移住。幼いころの日本の記憶を描いた「遠い山なみの光」で王立文学協会賞、第二次世界大戦前後の英国貴族に仕えた執事の半生を描いた「日の名残り」で英文学界最高の栄誉とされるブッカー賞を受賞しています。
文学にはあまり縁がありませんが、2006年に日本で発行された「わたしを離さないで」は、出版社の宣伝に乗せられて読んだことがありました。映画化もされ、日本では綾瀬はるか主演でテレビドラマ化もされています。
この作品は臓器提供のためにクローンとして生まれ、ひっそりと暮らす若者たちの話というSFです。老人のように命に限りがある若者たち。あまりにはかない物語が静かに語られ、残酷な真実が明かされます。イシグロ氏もこうした設定に日本人的な意識を感じているようです。
英国籍なのだから日本のマスコミが騒ぐのは恥ずかしいという声もありますが、ノーベル財団は国籍ではなく出生国によって、イシグロ氏を3人目の「日本の」文学賞受賞者としてリストアップしています。あながち的外れな騒ぎでもありません。
文学賞といえば毎年、村上春樹氏の名前が候補に挙がります。2006年にノーベル賞に一番近いといわれているフランツ・カフカ賞を受賞したのがきっかけです。発表の日には「ハルキスト」が集うブックカフェにカメラマンを出すのが恒例でした。今年は村上氏がデビュー前にジャズ喫茶を営みながら住んでいた東京・千駄ケ谷の神社がパブリックビューイングの場所となりました。
発表の瞬間、またしても会場からはため息が漏れました。今年も無駄足かと思いきや、イシグロ作品を評価する声が意外に多く、まるで村上氏が受賞したような喜びよう。「村上さんは慌てなくてもいずれ受賞できる」と冗舌に話す人もいて、もはや宗教なのかといぶかしんでいたら、実はイシグロ氏と村上氏は互いに「ファン」を公言し、同時代の作家としてリスペクトし合っているのだとか。ハルキストもよく知っているのですね。失礼しました。
ついでに書き添えると、昨年の文学賞を受賞したボブ・ディラン氏については、「13歳のときから私の最大のヒーロー」で、ディラン氏に続く受賞を「ものすごく光栄」と喜んだそうです。文学の世界はいろいろつながっています。
受賞決定後に再放送されたNHKの番組で、イシグロ氏は「フィクションとしての小説に価値があるのは、異なる世界を作り出すことができる」からで、「その中に入り込むことで、私たちは現実世界のものも想像から作り出されたことを思い起こす」と述べています。
ノーベル賞の公式広報部門「ノーベル・メディア」のインタビューには、「西欧世界の価値観について、われわれがこれほど不確かだと感じたことはない」とし、その上で探求し続けるテーマとして、満足感や愛を探すための「個人の領域」と、それと不可避的に交差する「政治や暗黒世界すら広がる大きな世界」の二つを「私たちがいかに同時に生きているか」を挙げました。移民問題をめぐって西欧諸国が血肉としてきたはずのリベラルな価値観が揺らいでいることを指しているのでしょうか。
ひるがえって日本では、安倍首相が衆院を解散し、選挙戦の真っ只中です。野党の分裂、再編で選挙の様相はがらりと変わり、憲法改正や安全保障などで3極が争う構図になりました。政策の詳細ははっきりしていませんが、ある意味、有権者には分かりやすい構図となり、私たちは選択を迫られています。
国際情勢に目をやると、北朝鮮への軍事攻撃の有無が職場で話題に上るほど、日本人はこれまでにない危機を意識させられています。北朝鮮に核放棄させるにはどうすればいいのか。戦争が現実になったら私たちの生活や家族はどうなるのでしょうか。
どういう状況になっても、それは私たちの想像が生み出したのだとすれば、イシグロ氏の言葉がリアルに響いてきます。
2017年10月