(2014・2・15日本新聞博物館)

日本新聞博物館主催の「2013年報道写真展 記者講演会」が14年2月15日(土)、同館のニュースパークシアターで開かれ、「見せましょう!日本の底力を」-JR南浦和駅で車体とホームの間に挟まれた女性の救出劇の様子を捉え、2013年東京写真記者協会賞(グランプリ)を受賞した読売新聞東京本社・繁田統央記者、「今年もふたりで~福島県飯館村の春~」で自宅の縁側で桜を見るお年寄り夫妻の姿をルポして企画部門奨励賞を受賞した毎日新聞社・須賀川理記者が講演しました。コーディネーターは東京写協の花井尊事務局長。講演のあと会場からの質問に答えながら、日ごろの取材活動、紙面だけでは語り尽くせない報道への思いなどについても語って頂きました。現代社会で写真・映像による報道に求められている役割や写真ジャーナリズム全般についても話し合いました。(以下はその抜粋です)

【花井コーディネーター】本日は大雪の中、予想以上に大勢の方々にお集まりいただきありがとうございます。この大雪では、多くの人は外に出て来られないな、と自分で勝手に思い込んでいたものですから大変感激しています。これから東京写真記者協会所属の二人の写真記者に受賞写真の取材に関して話して頂くほか、日ごろ写真取材やジャーナリズムに関して感じたこと、思うことなどをざっくばらんに話し合いたいと思います。まず、繁田さんは、たまたま現場に居合わせて事件に遭遇、その映像をすぐ本社に送り、夕刊紙面に載せました。さらに外国通信社がその記事、写真をキャリーして世界中で話題になったと聞いています。そのあたりも含めてお話しください。

【写真】挟まれた女性を救うため車両を押す乗客=繁田撮影

【読売・繁田】この写真を撮影したのは~午前9時すぎ、JR京浜東北線・南浦和駅のホームです。私は、子供たちに写真の撮り方を教える出前授業のため、埼玉県蕨市の公民館へ向かう途中でした。最初は隣の車両のドア付近に駅員3、4人が集まっているところをのぞいて見ると30歳代ぐらいの女性がホームと電車の間にへそのあたりまで挟まれていました。女性は上半身をホームに横たえて、ぐったりしていました。しばらくすると「人がホームと電車の間に挟まれています」とアナウンスが流れました。「それは大変だ」と乗客も事態がわかり、そのうち、私の近くに居た人から、「車両を軽くするため、皆さん電車を降りましょう」と声があがったのです。その声かけに応じて、続々と皆が車外に出ました。ホームに出ると、駅員が女性を引き上げようとしている姿を見て、自然発生的に皆が電車を押し出しました。その数約40人。車輪を含めた1両の重さは約32㌧。「押しますよ せーの」というかけ声とともに車体が大きく傾き、女性が引き上げられたのです。「出たー」という歓声や歓声があがり、大きな拍手に包まれました。女性は病院に運ばれましたが、目立ったけがもなかったという。乗客は何事もなかったように電車に乗り込み、定刻の8分遅れで電車は出発しました。乗客の善意に、私の胸にも温かい思いがあふれました。
写真部員は、まず何でも良いから一報用に「現場写真を押さえる」ことを教えられます。私は夕刊に間に合わせようと写真電送の事を考え、ミラーレス一眼とスマートフォンを両手に持って、近くの階段を5段ほどかけ上がりました。階段の手すりに体を預けて、左手を伸ばして、スマホで撮りました。続いて、ミラーレス一眼で撮りましたがスマホの方がシャッターチャンスが良かったです。その場のホームで写真部に送った後、授業に向かいました。事件自体は大きな話ではなく、没かあるいは「県版」かなと思いました。写真部デスクが夕刊に売り込んでくれましたが、当日は参院選の翌日であり、紙面に余裕はありませんでした。しかし、編成デスクが「こんな写真、見たことない」と取り上げて、さいたま支局から取材をしてもらいました。取材は難航したと聞いています。当事者や目撃者は電車に乗って行ってつかまらない。私は授業の合間に、目撃者として、そのときの様子を電話で吹き込みました。授業が終わった時には夕刊ゲラのPDFがスマホに送られて来ました。夕刊発行と平行してヨミウリオンラインに掲載し、APなど外国通信社にも配信しました。私が撮影した写真は22日付け本紙夕刊に載ると世界中のテレビや新聞もこの写真を使って報道しました。各国のメディアに流れて、そこから、フェイスブックなどにこの写真をシェアする人が多く、世界の人々に広がりました。これほど、短時間に世界中に広がったのは、ネット時代だからこそではあるが、読売新聞の信頼性に裏打ちされたものだと思います。
日本の「普通の人々」の強さを物語るものだと思います。東日本大震災の被災地で黙々と復興にとりくんでいる人たちの存在が日本の底力と団結力を示しています。今回の賞は私が取ったものではなくて、ここで懸命に車両を押している人々が取ったものです。

【花井コーディネーター】今回、有意義な取材だったと思いますが、いつもこのようなケースにぶち当たるかどうか分かりません。やはり写真記者(報道カメラマン)は「記録」して「伝える」ことが第一義だと思います。お見事でした。いわゆるネット社会で、このように1枚の写真が世界に流れていくことを実感しました。ただ「撮る」だけでなく、どう「伝える」か、が今後も我々の課題になってくることと思います。これとは若干違うジャーナリズムの世界でじっくり取材して「伝える」企画もので、大変反響が大きかった福島県飯館村で老夫妻を追いかけた毎日新聞の須賀川記者に、取材のアプローチや苦労話しを交えながらお話しを聞きたいと思います。

【毎日・須賀川】「今年も2人で」は福島県飯舘村の現在は居住制限区域にある集落に住んでいる佐藤強さん、ヒサノさん夫妻を2011年6月から継続的に取材したうちの2枚です。お二人を2011年6月、12年5月、13年5月の計3回のグラフ紙面で紹介しました。連載という形ではなく、強さんの人柄に惹かれて通ううちに写真ができて、強さんの話す言葉で原稿ができていきました。3回のグラフに共通するのは強さんのヒサノさんと古里に対する愛情です。
私が初めて飯舘村の取材をしたのは2011年4月です。当時、飯舘村は広範囲に放射性物質に汚染されていることは分かっていましたが、対応の遅れから住民は不安の日々を過ごしていました。その後、全村民の避難が決まりましたが、故郷を離れることや、飼育している家畜がどうなるのか見えない状態で自分たちが避難する事への抵抗感がとても強かったように思います。
佐藤さん夫妻に出会ったのは6月です。すでに子供がいる家庭は避難を終えていましたが、それでもまだ数多くの農家の方が残っていました。「今までと違う切り口で飯舘の現状を伝えられないか」そんな思いで農家を訪ね歩いている時に「向かいのおじいちゃん、おばあちゃんは避難をしないで家に残る」という話を聞き、自宅を訪ねたのです。
強さんは「足の不自由なババと避難すると介護施設と仮設住宅に分かれて暮らすことになる。もう何年も生きられないんだから、最後まで一緒にいさせてくれ」と決意を話してくれました。そして村への思いを聞かせてくれました。
故郷への思いと家族への愛。被災した村人の現状や今後に対する考えは様々でもこの2つは常に共通しています。強さんの思いを伝えることで村の人の思いの一端を伝えられるのではと考え、1度目のグラフ紙面(グラフ①)を作りました。

グラフ①

その後も、暇を見つけては夫妻の家を訪ねました。取材というものではなく、カメラも持たず、お茶を飲んで世間話をして帰ることがほとんどでした。村の人が避難を終えた後、いつも明るく、冗談が好きな強さんですが、「一服しても話し相手がいないもの。だあれも通らねえ」というのが口癖のようになっていました。それでも別れ際には必ず「みんなが帰ってくるまで、ババと元気に見守り隊だ」と村の防犯パトロール隊「見守り隊」の名にひっかけて明るい笑顔で送り出してくれていました。
2012年5月、別の取材で村内を移動中に偶然、出くわしたのがこの光景です。築100年を超える自宅。ヒサノさんの生家で強さんは二十歳の時に隣の家から婿に入りました。たぶん2人が子供の頃から見ていた光景なのだと思うと神々しさすら感じました。でも撮影する私の背後には荒れた田畑が広がり悲しい現実があります。この写真と現実を対比させることで作ったのが2回目の紙面(グラフ②)です。

グラフ②

それから1年も同じように時間を見つけては訪ねていました。「話し相手がいない」という話に、近所の人が避難先で亡くなったという話が加わりました。3月、偶然、福島県内に滞在していた時に「ヒサノさんが亡くなった」と連絡を受けました。駆けつけると家は弔問客や葬儀の準備に追われる親類であふれかえっていました。強さんは私を見つけると「おらのババが死んじまった」と泣きはらした顔でつぶやきました。そして布団に横たわるヒサノさんを確認するように何度も何度も見ていました。
強さんの気持ちが少し落ちついた4月下旬、再び自宅を訪ねました。家の前に車を止めると強さんは1年前と同じように縁側で桜を見ていました。少し話をして、「桜が綺麗だから1枚撮らせて」とファインダーを覗くと部屋の中に飾られたヒサノさんの遺影が傍らで微笑んでいるように見えました。1年前を思い出し、残酷な時間の流れをこれほど強く伝えられる場面はないと思いました。これは高齢者の多い村が直面する問題でもあります。
撮影を終えると強さんは「ババも一緒に撮ってもらおうか」と室内から遺影を持ち出そうとしました。「もう一緒に写っているよ」。デジカメのモニターで撮影した画像を見せると「そうか。良かった」と微笑んでくれました。久しぶりに見る強さんの笑顔でした。(グラフ③)

グラフ③

以上がこれまでの取材経緯です。強さんとの付き合いは、もちろん今も続いています。もし次回のグラフ紙面があるとするなら村に人が戻って、強さんが大好きな農業を再開する様子を伝えたいと思っています。

【花井コーディネーター】興味深い取材話をありがとうございます。この2枚の写真を見てジーンときたのは私だけではないと思います。伝わってきますね、やりきれない思いとともに強さんのやさしさが。1枚の写真から発するメッセージは強いものがあります。やはり動画ではない写真のメッセージ性は、1枚の写真がおのずと語ってくれるのです。
さて、これからは三人でディスカッションをしながら、また会場からのご質問にも答えながら進めていきますので、よろしくお願いします。

○繁田さん、メディアの多様化でデジカメ、スマホ、ツイッター、電子新聞など、我々を取り巻く環境は激変しましたが、どう対応したらいいのでしょうか。
【繁田】それは新聞とネットのニュースは共存可能だと思います。一覧性、一度に目に入って来る情報量が違います。見出しや写真の大きさで何が重要なニュースかを教えてくれます。これからは紙とネットとの連動性が重視されるのではないでしょうか。よみうり写真大賞入選作品を紙面のスペースの都合上、上位までしか、掲載できませんが、YOLでは全入賞作品を見られます。高校生は写真部として、活動している生徒が多く、彼らの発表の場や作品参照の場として、人気が高いです。 記者の取材裏話、撮影の苦労話。記者が撮った動画などもあります。また全国の県版ニュースも掲載していて、ふるさとなど、興味のある県のニュースを見ることができます。新聞紙面で一般教養を身に付け、興味のある分野について、連動したネットでより深く知るという利用の仕方もあります。

○同じ質問ですが、須賀川さんはどう捉えますか。

【須賀川】新聞報道において速報の重要性はいうまでもありませんが、事件事故、災害で現場に居合わせた一般の方がツイッターなどで発信する一次情報に我々は速さという意味ではかないません。信頼のできる二次情報、三次情報、そしてその後の企画取材でいかに独自性を出していけるかがこれからますます問われていくと思います。

○須賀川さん、特に企画ものに対しての切り口といいますか、写真取材の信条とか、何か心掛けていることはありますか。

【須賀川】一口に企画といってもアプローチの仕方は様々で、今回の「今年も2人で」は佐藤さんのご自宅に通う中で、中心となる写真がたまたま撮れ、それを補う原稿やその他の写真をどう組み立てていくかを現場で考えています。これが自然や動物相手の企画だと、初めに思い描く映像があって、それを撮影するための手段を考える事前準備が重要になります。共通するのは、時間を掛け、現場に数多く通った方がうまくいくことが多いということでしょうか。

○同じく繁田さんはいかがでしょうか。

【繁田】90年代前半、読売新聞夕刊で「写撃」という、欄を先輩とデスク、3人で担当していて、 その時々の世相を斬るという目的、東京写真記者協会の92年国内部門企画賞をいただきました。当時はエイズやバブル崩壊、など時代をにぎわせたニュースを日々のニュースと違って、どう切り取るかが大変でした。まず、そのニュースが象徴するものは何か。及ぼす影響は、別の見方はないかを考えながら、全国の新聞を見たり、ネットで検索したりしました。ナイーブな問題だと取材拒否、良くても話だけで写真NGだったりと難しかったです。それを突破するには、実際に当事者に会って直談判をするという大切さを痛感しました。

○繁田さん、これまでに一番記憶に残っている写真取材は何ですか。

【繁田】それは下のアネハヅルの写真です。

ヒマラヤ山脈を越える、アネハヅルの渡りを撮りました。
アネハヅルはロシア、カザフスタンで繁殖、インドで越冬しますが、気流に乗って高度8,000メートル以上に上昇、ヒマラヤを飛び越えます。しかし限られた登山家以外、その渡りの姿を目にした者はほとんどいません。繁殖地で、21羽の背中にマッチ箱大の送信機を装着。モンゴルで送信機をつけた一羽を含む群れがダウラギリ西方を越える瞬間を撮るのに成功しました5,000㌔を渡るルート解明に役立ちました。日本野鳥の会との壮大なプロジェクトでプレッシャーも大きかったです。ネパールのカトマンズからチャーター機に乗って、標高3,000㍍の村を拠点にしました。車どころか自転車の1台もなく、強風が毎日村を襲います。村から馬に乗って川を渡って、3,500㍍山腹まで、毎日登り、800ミリの望遠レンズで強風の中、ひたすらツルが現れるのを待ちました。カメラ1台は川に転落したときに水没してしまい、もう1台は風に三脚ごと飛ばされて、破損して。残り2台になってしまいましたが、苦難の末、ヒマラヤ超えのツルを撮影に成功しました。ツルの後を追って、インドに渡り、休息地の湖で、群れの中に送信機を付けたツルを発見したときには熱いものがこみ上げてきました。

○須賀川さんはどうでしょう。

【須賀川】東日本大震災です。これまでも中越地震や岩手・宮城内陸地震など震災取材は経験がありましたが、想像をはるかに超えた被害の大きさに圧倒され、言葉を失いました。私は3月下旬に岩手県大槌町という所に入ったのですが、報道カメラマンとして「何を伝えるべきか」を考えるよりも、暖かい食事や人手、情報など被災者の「何が欲しい」をとにかく写真や原稿に盛り込んで発信しようと、被災者と読者を繋ぐ伝書鳩のようになれれば良いと思いました。
【花井コーディネーター】ありがとうございます。それぞれご苦労があったと思います。多くの写真記者たちは、国民の知る権利に応えるべく頑張っています。それが、「時代の目撃者」としての写真報道だと思います。これからも「記録する」ことはもちろん、社会に「問題提起」することも忘れずに、その両輪で精進していただきたいと思います。本日は大雪の中、ありがとうございました。これで終わらせていただきます。

以上