先月、元フジテレビアナウンサーの岩瀬惠子さんが進行役を務めるラジオ日本の朝のニュースワイド番組に出演させていただく機会があった。弊社の部長や記者が最新ニュースなどについて解説するというコーナーだが、なぜか次は写真部長にとお鉢が回ってきた。「30分ぐらいだからあっという間だよ」と担当の編集局デスクに言われ、つい生放送の出演依頼を受けてしまった。
一体何を話せばいいのか考えあぐねた末、ネット展開を見据えた組織改編で変わり行く写真部といった漠然としたレジメを作り、ドローンを使った撮影の裏話などを交えて話すという段取りになった。

そして放送当日。最近の業界事情などを説明して前半が終了。天気予報やニュースが流れる間のブレイクとなり、マイクがオフになった。岩瀬さんと入社年次が近かったことから、昔の失敗談などを話していると、「後半は山本さんの思い出話で行きましょう」と突然の予定変更。そして、出されたのは「一番心に残っている写真は何ですか?」という質問だった。

傑作と胸を張るほどの写真はないし、失敗作ならいくらでもあるのだが。生放送なので口ごもっているわけにもいかず焦ってしまった。慌てて頭の中で記憶の巻物をさっと広げると、駆け出しカメラマンだった25年前の雲仙普賢岳の噴火災害が蘇ってきた。
「目の前に迫る大火砕流を撮ったことがあります」。報道関係者や消防団員など40人以上が命を落としている。岩瀬さんも当時の記憶は鮮明だったようで、私が話し始めるとにこやかだった表情にやや険しさが走った。

1991年6月3日午後4時ごろ、梅雨の雨雲が低く垂れ込め、普賢岳の様子を伺うことができないまま、私は土石流が度々発生していた水無川沿いで上流を見詰めていた。毎日新聞の加古カメラマンと出くわし世間話をしているところへ、同社の石津カメラマンが車で通り掛かかり、上流へ様子を見に行くから一緒にどうかと誘われた。数日前に先輩に紹介されて面識があったので声を掛けてくれたのだろう。しかし、5月29日に発生した火砕流が各社の撮影ポイントだったいわゆる「正面」と呼ばれる場所の間近まで迫ったこともあり、上流には行かないと決めていた。そのため、加古カメラマンとその場に残って見送ったその直後だった。

雨雲の中から火砕流が現れた。それは何回か見たものと同じ黒い煙の塊だったが、すぐに何かが違うと直感した。遠くに見える川沿いの民家を次々と飲み込み、止まる気配を見せない。「これは逃げられんばい」と加古カメラマンがつぶやいた。私は咄嗟に2枚ほどシャッターを切って走り出した=写真。
そのあとはよく覚えていない。川沿いではなく横へ逃げようと、トウモロコシだかタバコだか分からない葉をかき分けて、畑の中を夢中で走った。加古カメラマンともいつの間にかはぐれていた。ふと振り向くと火砕流は凶暴な輪郭をうっすらと消しつつあり、頭上では火山雷が鳴り響き、火山灰でドロドロの雨粒が着ていたカッパを叩き始めた。
見覚えのある道に出たとき、地元テレビ局の取材車が私の前で止まり、火砕流が襲った現場へ向かうので乗らないかという。近くでは興奮した消防団の男性が「行ったらみんな死んでしまう」と叫んでいる。私は無言で首を横に振った。火砕流がまた来るかもしれない。

雲仙普賢岳の災害では報道関係者の火山災害に対する知識の欠如や専門家がパニックを恐れてしっかり警鐘を鳴らさなかったことなど様々な問題点が指摘されたが、25年後の現在、その教訓はどこまで生かされているのか。
編集とは切り離した安全対策だけを考える部署を作った社もあると聞く。そこがダメといえば編集デスクが何を言ってもダメなのだそうだ。強制力はありそうだが、自分の身は自分で守るのを基本に考えたい。
昨年の常総市の鬼怒川決壊では、現場に向かった記者、カメラマンがドライバーの運転する車ごと増水してきた水に浸かって身動きできなくなる事態が発生した。近くの民家に避難させてもらい夜を明かしたが、並行して流れる小貝川の堤防脇だったため、万が一その堤防も決壊したら大変なことだった。部長として取材を命じる側になり、カメラマンの安全をどう守ればいいのか改めて考えさせられた。

マイクに向かって話しながら頭の中でそんなことを考えていたら、岩瀬さんがちらちらと視線を時計に向けている。見るとあと30秒ほどしかない。「ドローンが使えれば、いずれ安全に取材できるようになりますね。山本さん、どうもありがとうございました」。本当にあっという間だった。

このコラムが掲載されるころには東日本大震災から5年目の「3・11」を迎えているだろう。安全についてのみならず、災害から何を学ぶか。被災者に寄り添って取材したカメラマンたちも自問自答しているに違いない。

2016年3月