まず、大震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、被災された皆さまに謹んでお見舞い申し上げます。

3月11日午後3時56分、巨大地震による津波が名取市の沿岸部に押し寄せる瞬間を手塚耕一郎がヘリから撮影した。2カ月が経った5月初旬、手塚は写真を手に現地を訪ねた。そこで写真に写っている集会所の屋根に上り助かった男性と出会う。男性は地元の人たちの避難誘導中に津波に襲われ、仲間4人と屋根の上で一夜を明かした。翌朝、周囲の水が引き男性らは股下まで泥に浸かりながら仙台空港に避難した。あの日は夕方から雪になった。屋根の上で震える男性は妻に「寒くて大変だ。助けてくれ」と携帯でメールを送る。避難して無事だった妻は警察に救助を要請するが、混乱していて取り合ってもらえなかった。そのうち、携帯のバッテリーも切れ連絡が途絶えた。

翌12日の朝、妻は避難先で地元紙に載った手塚が撮影した津波の写真(写真左)をルーペで食い入るように見ていた。夫の姿を新聞で確認しようとしたのだ。写真を拡大(写真右)すると、夫が避難した集会所はかろうじて分かった。しかし○印内の人影までは、新聞の印刷では分からなかった。その後、人づてに夫が無事でいると聞いたのは14日の午後。夫婦が再開できたのは16日になってからだった。手塚が訪ねた時、この夫妻は知り合いの家族と一緒に避難所の近くの耕作放棄地を耕して野菜作りを始めていた。

沿岸に押し寄せる大津波を上空から見た手塚は、これは数千人の命が奪われると直感したという。自分が撮影したあの場所にいた人たちが、どうなったのかずっと気がかりだった。どんな反応があるのか、不安を抱えながら被災地に向かった。現地では新聞や写真集に掲載された津波の空撮写真が話題になっていて、プリントを見ながらいろいろな話を聞くことができた。夫婦の話もその一つ。

被災地の避難所では新聞が重要な情報源として機能したと聞く。停電でテレビやパソコンは使えず、ラジオにも限りがあった。震災当初、写真部員は販売店から宿舎に届けられた朝刊を避難所に届けた。被災者にたいへん喜ばれたという。
緊急時に頼られるメディアとして、一過性の報道に終わらせず「その後」をしっかりと追い続けることが新聞の使命だ。タフな取材になるが10、20、30年と地道に被災地報道を続けたい。