≪いい写真とは≫               


 仕事柄、「いい写真を撮りたい」とか、「いい写真を撮れ」とか言うが、それでは「いい写真とはどんな写真?」と考えることがある。知人に「これはいい写真だね」と話しかけた時、「ええーっ?!」と否定的な反応もあれば、「そうね」と同意される時もある。


 一般的に写真の「いい悪い」は、人の感性が判断の基準なのだろうか。個性的な芸術作品ならば「感覚の差」で片付けてそのままにしておけるが、我々が携わっている新聞写真を含む報道写真はそういうわけにはいかない。記録性に加え、ニュースを読者に伝える役割が大きいので、「写真も自己表現の一つ」として内容が伝わらなくてもいいや、と済ませるわけにはいかないのだ。かといって中味が伝われば絵柄はどうでもいいというわけでもない。そこが難しい。


 その点スポーツ写真は分かりやすい。記録性はもちろんだが主な基準は「迫力がある」か、「美しい」か、で決まり、「いい悪い」がすぐに分かる。写真を見れば競技名も分かるし、構図もきれいなものを選んで出稿するので、極端な話をすれば、100点か0点の場合が多い。


 反対に事件、事故などは、記録性、証拠性という要素が入ってくるので、その要素が強ければ強いほど構図や絵柄が悪く、迫力がなくてもボツにしない。少々ピントがあまくてもそれしかなければ使用する。この手の写真は「証拠写真」と呼んでいた。これはこれで必要な新聞写真で、テレビドラマの裁判シーンで使われる殺人現場の写真を想像すると分かりやすい。現場を忠実に写すことを目的にしているので証拠能力は高いが写真表現としての構図の遊びなど、取材者の個性、感情は出ていない。


 かつて取材した米価審議会の答申取材は、答申が出る時期が分からず、農水省の別館で張り込んで大臣に答申を手渡すだけの数秒のセレモニーを撮った。これこそ答申が出たという「証拠写真」の極みだ。当時はデスクに「生産者が掲げる『むしろ旗』が並ぶ写真のほうがよくないですか?」と売り込んだ。なぜむしろ旗を推したのか。それは答申場面よりも生産者が生活の実情を訴える言葉を書いたむしろ旗のほうが「絵」になっていたからだ。この「絵」になっていることが「いい写真」の条件の一つではなかろうか。


 米価審議会答申は双方の顔が見える場所を確保するための技術は必要だが撮影そのものは高度な技術がとくに必要というものではなく、モチベーションは上がらなかった。図柄もただ答申を渡しているだけで感動も与えない。紙面で見せられている読者も「答申が出た」という記号として何気なく見ていたのではなかろうか。ニュース写真として「絵」になっていなかった。


 写真撮影は技術が必要だ。写真の意図を正しく伝えるにはそれなりの技術がないと写真表現はできない。では技術で「絵」にすればそれでいいのだろうか。


 以前、この道何十年の撮影歴があるプロ、アマ写真家の作品の中にたった1日、コンパクトカメラを渡された小学生たちが自由に写した作品を展示した写真展があった。そのベテラン写真家たちには申し訳ないが、子供たちの写真の方がよかった。写真家の風景写真は構図などしっかりしていて「絵」になっていた。逆にこどもたちの写真はそれなりの構図であまり「絵」になってはいない。だが感じるまま素直に撮っているのか人物の表情がいいし、身近な風景の色などがとてもよかった。


 なぜそう感じたのだろうか。違いは撮影時の感受性や感動の度合いだと思う。子供たちは感動しながら写真を撮っている。「きれい」、「おもしろい」と思えばそれらをストレートにとらえていた。写真家は技術に頼りすぎて感動の表現を置き忘れていたような気がした。


 いい写真の条件が少しわかったような気がしてきた。同レベルの写真家が一つの被写体を撮った場合、構図、シャッターチャンスが同じなら「いい写真かどうか」の分かれ目は、自分が感動して撮影しているかどうかが分かれ目になるのではなかろうか。つまり被写体への入れ込み具合で写真に差が付く。感動して撮影するとなぜか見る人にそれが伝わっていく。


 報道における「いい写真」の条件とは記録性があり、しっかりした技術に支えられた表現で、見る人にニュースを的確に伝え、感動を与える写真と定義されるのではないだろうか。見る人にいい写真と感じてもらうには最後の味付けとして、自分が感動して撮影したかどうかがキーポイントになると思う。


 しかし、まだまだ「いい写真とは」の思考は続く。